39.遅刻は夢の時間
「なんだか、この前と同じような状況だな」
マスターが眉をひそめて、ナツに言った。
時計の針は、夜の七時を少し回っていた。
窓の外には街灯の光が滲み、喫茶店「花」は今日もゆるやかな時間を刻んでいる。
「パパ、もうお店閉めるね。ママがご飯できたって。あとはやっとくから、先に家戻ってて」
厨房から顔を出した水月が、カウンターに立つマスターへ声をかけた。
「ありがとう、水月。あとは頼んだ」
「うん、だからナツちゃん、そこにいて」
突然話を向けられて、ナツは小さく肩をすくめた。
「でも……」
「いいからいいから。そこに座って」
「はい……」
水月の朗らかな笑顔に押されて、ナツは再び席へと腰を下ろした。背筋はまっすぐにしているのに、指先はそわそわと落ち着かない。
すると、すぐ隣に葉月が滑り込むように座った。
彼女の存在に、ナツの緊張がさらに跳ね上がる。
目の前に、あのSpringの元メンバーふたりがいるなんて。
まさか、雪さんとの待ち合わせ場所にこんな偶然があるなんて――。
「それで、試験はどうだったの?」
葉月の声は驚くほど柔らかかった。舞台の上で見るクールな表情とは違い、今はどこか姉のような温かさがある。
「わかりません。その……今のほうが、試験よりも緊張しているくらいで」
ナツの声はかすかに震えていたが、その言葉にふたりは顔を見合わせて、ふっと笑った。
「ふふふ」
「なんか、初々しい」
「どんな質問された?」
今度は水月が問う。
「えっと……アイドルと文章を書くこと、どちらが好きかって」
「それは、困った質問だね」
葉月と水月が再び目を合わせて、今度は小さく首を傾け合うように頷いた。
「私、正解がわからなかったんです。でも……私が好きだったのは、アイドルではなくて、雪さんだから」
ナツは恥ずかしさを隠すように、視線をテーブルへ落とす。
「かわいい、ナツちゃん」
葉月が口元を緩めながら言った。
「そ、そんな……」
「じゃあ、文章を書くことって答えたんだ?」
水月の問いかけに、ナツはこくりと頷いた。
「はい。私が雪さんと出会えたのも、文章を書くことがきっかけだったから。だから……」
言いながら、ふいに胸の奥が熱くなる。
「そっか」
「落ちても後悔はありません。おふたりにこんなことを話しているのも、夢みたいで……。なんて言っていいか……」
ナツの声は、ほんの少し、涙ぐんでいた。
「私たちのこと、応援してくれていたんだ」水月がそっと言う。
「もちろんです。私はただの、その……いちファンで」
「そんなに自分を卑下しちゃダメ」葉月の言葉はきっぱりしていた。
「夢は、挑戦した人だけに叶う権利が与えられるの」
「挑戦……した人だけ……」
その言葉が、ゆっくりナツの胸に沈んでいく。
「そう。ナツちゃんが文章を書くことが好きだったら、もっともっと書けばいい。それが誰かに、夢や希望を与えることになるんだから」
「Springの編集部、すごい倍率だって聞くし、仮に落ちても、その“好き”って気持ちは、絶対に忘れちゃダメ」
ナツは唇をきゅっと結び、小さく深呼吸をした。
「……今日は、とってもいい質問をもらったかもしれません」
「そうそう。何事も、いいほうにとらえていこう」
水月があたたかな笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます」
ナツが時計を見る。雪との待ち合わせ時間は、もうとっくに過ぎていた。
「雪ちゃんには、さっき私からも連絡入れといたから」
「すみません、水月さんにご迷惑を……」
「いいの。ナツちゃんのこと、雪ちゃんから色々聞いてるから」
「えっ……」
少し驚いたようにナツが水月を見る。
「私たち、たぶん雪ちゃんにとっては、昔の自分を重ねた存在なんだと思う」
「……あの、もしよかったら……おふたりは、どうやって恋人に……?」
おずおずと聞くナツに、葉月がちょっと困ったように眉を下げた。
「うーん、自然に……ってわけにはいかなかったかな」
「葉月、ナツちゃん真剣に聞いてる」
「わかったよ。誰にも話してないから、言わないでね?」
「はい!」
「水月とコンサート中、ホテルで同室になったの。お互いに好きだったけど、まったく分かってなかった。その夜、恋バナでもしようって話になって、色々話して……“もしかして?”って気づいて」
「葉月ったら、自分だってわかった瞬間、目の色変えてね」
「しーっ!そんなこと言ったら、イメージ崩れちゃうじゃん」
「ふふふ、カッコいい葉月?もう私の中には、そんな葉月いないけど?」
「えー、天然な水月に言われたくないなあ」
「ふふふ」ナツもつられて笑っていた。
「……あ、ナツちゃん笑った。よかった」
水月の言葉に、ナツは少しだけ頬を染めた。
「だって、本当に舞台の上と変わらない仲良しさだから……」
「お客さんは、みんな知ってたのにね」水月が葉月を見ながら言う。
「おふたりの仲の良さが、グループの魅力だったと思います」
「そうかもね。今は、Springの人気も落ち着いてきてるし。Autumnのほうが勢いあるかもしれない」
葉月の言葉に水月も真剣な表情でうなづいた。
「Springも、そろそろ姉妹グループを出す時期かもしれないね」
水月がそう言ったときだった。カラン、と扉のベルが鳴る。
ナツが反射的にそちらを見ると――
「ごめん、また遅くなった」
雪が立っていた。
息を弾ませて、眉を寄せたまま、ナツのほうへとまっすぐ歩いてくる。
ナツの胸が、熱くなる。
彼女に会えた。ただそれだけで、言葉にならない想いが、心に満ちていった――。




