38.それぞれの場所で
三月の空は、どこか澄んでいて、少しだけ春のにおいがした。
Spring編集部の社屋に着いたナツは、受付で名前を告げたあと、静かにエレベーターに乗り込む。鏡に映った自分の顔が、思っていたよりも固くこわばっていた。
「……大丈夫、大丈夫」
胸の奥で呟いたその声は、小さく震えていた。
案内されたのは、前回の2次試験と同じ会議室。
いたのは、前回の試験より明らかに少ない4人ほどの女性。
隣にいたあの女の子の姿はなかった。
一瞬、目を閉じると、オーディションに落ちた日の自分の姿とあの子の姿が重なって見えて、
心がぎゅっとつかまれた気持ちになる。
名前を呼ばれ、面接室に入る。
まっすぐに伸びる絨毯。明るい照明。並んだ椅子に、3人の面接官。
自己紹介を求められたあと、ナツはまっすぐ前を見て座り直した。
「あなたは、Springのアイドルと、文章を書くこと、どちらが本当に好きですか?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
何度も面接の練習はしてきた。
けれど、その問いは想像よりも鋭く、心の奥に刺さるようだった。
ほんの数秒、けれどナツには永遠のように感じる沈黙ののち――
「……どちらも、大切です」
搾り出すように口を開いた。
答えを待つ面接官の表情は変わらず、ただひとり男性が、小さく頷いた。
「では、どちらかといえば?」
ナツの脳裏に、再びオーディションがよみがえる。
雪のいる場所に行きたくて、必死で練習した。
けれど現実は、夢のようにはいかなかった。
――ナツは、アイドルになりたかったんじゃない。
アイドルになって、雪のそばにいたかっただけ。
アイドルという存在は、ナツにとって「雪」という人への憧れの形だったのだ。
自分にはコレしかない。
「……文章を書くことです」
しっかりと前を向いて、そう答えた。
面接官のひとりが軽く微笑み、またひとりがメモを取る。
その瞬間、ナツの肩の力がふっと抜けた。
ごまかすことはできなかった。
本当の気持ちを言葉にできたことが、少しだけ、誇らしかった。
***
同じころ。
都内のレッスンスタジオでは、雪が汗にまみれた髪を後ろにかき上げていた。
内部オーディションを通過した者だけが参加できる特別レッスン。
今日もその一環として、講師との面談が行われていた。
「あなたは、上からデビューさせるって言われてるけど――正直、今のままじゃ無理ね」
講師の冷たい言葉に、雪はぴくりと肩を動かした。
「……はい」
「そのレベルでセンターに立つなんて、甘すぎる。今デビューしたら、馬鹿にされるだけよ」
「頑張ります、もっと!」
強く、まっすぐに答える雪の目は、少しだけ赤かった。
涙をこらえていたのではない。くやしさで目の奥が熱くなるのを、押し殺していたのだ。
「今回のデビュー、枠は5人。あなたがそのセンター候補。だけど、誰よりも実力も足りてないし、何より個性が出せていないわ」
「……」
「センターが情けないダンスをしてたら、そのポジション、すぐに取られるわよ」
言葉はきつかったが、嘘はなかった。
誰よりも出来の悪い自分が、センターなど務まるはずがない。自覚はしている。
「もっと努力します。絶対、負けません」
「そう。それが聞きたかったの。いい?あなたは王道のアイドルになりたかったかもしれない。でもあなたの個性は違う。あなたが新しいアイドルを作るのよ。求めてるものと、求められているものが違うことを理解して」
「はい!」
雪はそのまま、誰もいないレッスン室に戻った。
講師が言っていることは当たっている。
雪が追っていたのはいつだって水月のような王道アイドル像。
でも自分自身は、水月のような可愛らしさがあるわけではない・・・求められているものに近づかなければならない。
鏡の中の自分と向き合い、何度も同じ振りを繰り返す。
足がもつれても、息が切れても、床に膝をついても、もう一度立ち上がる。
鏡の中には、あの日レッスンで見ていたナツの姿があるように見えた。
雪の姿は、静かで、でも凛としていた。
ナツがSpringで戦っているなら、私もここで戦わなきゃ――。
その思いだけが、雪を動かし時間を忘れて練習した。




