35.オーディション当日
そして迎えた、オーディション当日。
雲のあいだから、かすかな光が差し込んでいる。
雪の香りがする洋服と化粧を身にまとって、ナツは深く息を吸った。
胸の奥がざわつく。
オーディション会場の入り口で、雪が優しく笑った。
「緊張しないで、いつものナツでね」
「……うん。雪さん、本当に今までありがとう」
「なにそれ、なんだか別れるみたいだよ?」
「ちがうけど…すごく迷惑かけたし」
「気にしないの。私といるために受けるんでしょ?」
「うん…雪さんの隣は私の場所だから…」
「そう、ナツの場所だよ。あ、そうだ。これ」
「手紙?」
「そう、後で読んで」
「ありがとう」
「近くで待っているから、終わったら連絡して」
ナツは小さく頷いて、背中を押されるように控室へと向かった。
午前中のダンス審査。
あれだけ練習した振りは、ひとつ目のカウントを間違えた瞬間から崩れ出した。
音に乗れず、焦りが重なる。
次の歌唱審査でも、声は出たはずなのに、審査員の眉間がわずかに動いたのを見て、すべてが失われたような気がした。
心が沈んだまま、面接の順番を待つナツは、雪からの手紙を読んでいた。
「雪さん…」
そう呟いて天を仰いだとき、ふと小さな声が届く。
「あの……」
「え?」
「歌、上手でしたね」
ナツが顔を向けると、そこにいたのはか細くて、初々しい笑顔を浮かべた少女だった。
「ありがとう……そんなことないよ」
「私、あやって言います」
「ナツです。あやちゃんは……ダンスが得意なの?」
「はい。5歳からやってるので、もうずっと」
「すごいね。道理でうまかったわけだ」
あやはにこっと笑った。素直で、真っすぐで――
「今、いくつ?」
「18です。高校やめて、ここに入りたくて……賭けみたいなものです」
「……勇気、あるね」
「ナツさんは?」
「私は……ずっと別の道を歩いてきたけど、どうしても一緒にいたい人がここの研究生で」
「……素敵」
控室に漂う緊張の空気の中で、二人の会話だけが少しだけやさしく響いた。
「今日、何人受かるんでしょうね。あのふたり、多分10月にも受けてた方ですよ」
「どうしてわかるの?」
「さっき、トイレで聞いちゃって……“もう二回目だから完璧”って言ってた」
「そうなんだ……私は今日が初めて」
「うん、見てたらそうかなって。私も初めてなの」
あやはそう言って笑うと、ふと声をひそめた。
「……もし受かったら同期じゃないですか。仲良くしてほしくて。アイドルになる人って気が強い人が多そうで、私、馴染めるか自信ないから。ナツさん優しそうだなって」
「……ありがとう、あやちゃん」
その優しさに触れて、ナツの心に積もった不安が少しだけ溶けていく。
けれど――。
「落ち込んでるんですか?」
「……ちょっとね。全然踊れなかったし、歌も手ごたえなくて」
「そっか、でも次の面接に向けて切り替えないと」
「そうだよね」
「好きなアイドル、誰なんですか?」
ナツは少し笑って、胸に手を当てた。
「……もう卒業しちゃったけど、Springの水月さん」
「わぁ、私は葉月さん!おふたり、ほんとに素敵でしたよね」
「うん……ほんとうに」
そんな他愛もない会話の途中――
「番号○番の方、面接室へどうぞ」
呼ばれたのは、ナツだった。
「じゃあ、行ってくるね」
「頑張って!」
あやが小さく手を振った。
面接室の扉を開くと、静かな部屋に緊張が走る。
いくつかの質問が投げかけられる。志望動機、夢、経験。
ナツは誠実に、正直に答えていった。
そして、最後の質問が投げかけられた。
「ところで――年齢がギリギリのは、ご自分でも分かっていますね?」
ナツの身体が、きゅっと強張る。
「……はい」
「それでも、なぜこの世界に?」
「憧れの人がいて……。雪さんに」
「……なるほど」
審査員の一人が、年齢の意味を理解したように意味深に小さくうなずいた。
そのあと、ナツは不安な気持ちを抱えながら、面接室をあとにした。
夕方、合格者の番号が読み上げられていく。
けれど、ナツの番号は、呼ばれることはなかった。
ひとり、ふたりと控室を後にするなか、最後に呼ばれたのは、あやの番号だった。
あやの視線だけが、ナツに添えられているのを知りながらも、ナツは、促されるままに会場の外へと出た。
冷たい風が、涙を誘った。
抑えようとすればするほど、涙は頬を伝ってこぼれていく。
近くの公園のベンチに、雪は静かに座っていた。
その姿を見た瞬間――ナツは堪えきれなくなった。
雪がナツの存在に気づいて、立ち上がり駆け寄ってくる。
「……ごめん……ごめんね、雪さん……」
泣きじゃくるナツを、雪は無言で抱きしめた。
その腕の中は、あたたかくて、くやしくて、やさしかった。
「大丈夫。ナツが私のためにこんなに頑張ってくれる子だなんて知らなかった」
「でも、でも受からなかった…」
「まだ夢は終わってないよ、ナツには、Springがある」
「でも……私、せっかく教えてもらったダンスも歌もだめで……わたしもう、雪さんと」
「ううん。ナツは本当によく頑張った。未経験でここまで来た。私、全部見てた」
「……うん。頑張った、頑張ったんだよ……雪さんと一緒にいたくて……それだけなのに……」
ナツの言葉は涙に滲んで、雪の胸元へ染み込んだ。
「いいんだよ。オーディションに落ちても、ナツは私のものだから」
雪は静かに囁いた。
それでも流れ出るナツの涙を、雪は何度も何度もふき取った。




