34.オーディション前日
喫茶店「花」を出たふたりのあいだに、言葉はなかった。
夕暮れに染まる道を、ただ黙って歩く。
わずかに触れそうで触れない距離を保ったまま、並んで。
唯一交わした会話は、ホテルの前のコンビニで「朝ごはん、いるよね」と選んだおにぎりとヨーグルトの話だけだった。
チェックインを済ませ、エレベーターに乗る間も無言。
部屋に入り、ナツが小さなトランクを引きずって中へ足を踏み入れた瞬間だった。
――ぎゅっ。
背後から、急にぬくもりが飛び込んできた。
驚いて振り返ろうとしたナツの動きを、雪の腕が止めた。
「雪さん……?」
「このまま……少しだけ、こうさせて」
その声は、かすかに震えていた。
ナツは頷く。
心臓の鼓動は、不思議と落ち着いている。
しばらくして、雪の腕がゆっくりとほどけた。
その気配に、ナツはそっと振り返り、彼女の表情を覗き込む。
「……雪さん、大丈夫?」
「うん……でも、ごめんね。今日遅れたこと、本当は怒ってるでしょ?」
「ううん。だいじょうぶ。でも、心配だった」
ナツの言葉に、雪がほっと息をついた。
「ナツは、優しいね。私の方が焦ってるのかも」
「明日の……オーディション?」
「うん。実はね……前の予定が長引いたのも本当なんだけど、オーディション用のメイク道具、忘れてきちゃって。……家に取りに戻ってたの」
「えっ……じゃあ、そのために……雪さん、ありがとう」
「ほんとに、ごめんね。全部、伝えそびれて」
「もう、謝らなくていいよ。……さっきね、さなさんと話をして。雪さんとゆうさんが、どんなふうに出会ったのかも聞いた」
「……そっか」
雪が少し不安そうな表情を浮かべたのに対して、ナツは、ゆっくりと微笑んだ。
「でも、不思議と悲しくなかったの。私……選ばれたんだって思えたから。雪さんが、水月さんの代わりなら誰でもいいわけじゃないって、わかったから」
雪の瞳がわずかに揺れた。
「ナツ……」
「本当はね、どこかでずっと怖かった。雪さんは違うって言っても、水月さんを追い続けてる姿を見て、もしかしたら、誰か“水月さんの代わり”が務まる子なら、それでよかったんじゃないかって」
「そんなこと……あるわけない」
雪がかぶりを振った。強く、はっきりと。
「うん、そう思えるようになった。雪さんはいつも、私の前を走ってくれて、転びそうな私を、照らしてくれる……太陽みたいな人だって」
ナツが笑う。言葉は素直で、まっすぐだった。
雪はその瞳に、少し目を細めた。
けれど、ナツは続ける。
「でも、太陽は……みんなのもの。誰からも愛される人だよ。さなさんにも言われたの。“アイドルとしての雪さん”とうまくやっていけるか、自信あるの? って」
その言葉に、雪の笑顔が少し陰る。
「……それで、ナツはなんて答えたの?」
ナツは俯き、ほんの少し唇をかんだ。
「大丈夫って……答えた。でも、本当は怖かった。……明日のオーディションに絶対合格しなきゃ、雪さんとは……」
言いかけた言葉を、雪がそっと唇で塞いだ。
深く、優しく、けれどまっすぐに――。
唇が離れると同時に、雪が静かに囁いた。
「合格しても、しなくても……私はナツだけの太陽だよ」
「……天使のはしご――」
「え?」
「ううん、なんでもない」
「なにそれ。言って?」
ナツは恥ずかしそうに目を逸らし、それでも言った。
「雪さんは、私の心の厚い雲の切れ目から,光をくれた人」
雪は、目を細めて優しく微笑む。
「ふふ……それは私にとっても同じだよ。やっと見つけた大事な人」
「雪さん……」
ナツの唇が、ふたたび雪の唇に触れる。
先ほどよりも深く、やさしく――まるで誘うように。
雪はそのままナツの手を取り、ベッドの縁に腰を下ろさせる。
自分の体を重ねるように、ナツの肩にそっと手を置き、静かに体を倒した。
唇が、額に、頬に、首筋に、ゆっくりとキスを落としていく。
けれど――
それ以上、手はどこにも触れなかった。
ナツはそのもどかしさに、小さく声をもらした。
「……雪さん?」
「……今日は、ダメ」
雪の声は、少し掠れていた。
「明日は……大切な日だから。ナツがずっと、頑張ってきた日だから」
「でも……」
「これ以上したら、我慢できなくなる。……欲しくなっちゃうよ」
雪はナツの肩を抱き起こし、額をそっと寄せた。
「でも、代わりに……いっぱいキス、させて?」
ナツはその提案に、小さく頷いた。
キスだけで、心が満たされていく夜も、きっとある。
明日が、ふたりにとってどんな日になるとしても。
いまこの瞬間、心がふれていることだけが――すべてだった。




