33.雪とゆう
オーディションを翌日に控えた午後、ナツは喫茶店「花」のカウンター席にぽつんと座っていた。
温かいカフェオレにほとんど口をつけることもなく、何度目かのため息が漏れる。壁掛けの時計はすでに12時を過ぎていた。
待ち合わせは11時。それでも、雪はまだ姿を見せない。
「……雪さん、遅いな……」
小さく呟いた声に、カウンターの中で食器を拭いていたマスターが顔を上げる。
「最近、雪ちゃん……バイト増やしたって聞いたよ」
ナツはスマホの画面を開いて、未読のままのメッセージを見返す。
「そうなんですか? ……そんな話、何も聞いてなくて」
マスターは少し眉をひそめ、グラスを棚に戻しながら言う。
「そうか。何か理由があるのかもしれないな。……あの子、頑張り屋だけど、無理をするところがあるからな」
ナツは唇を噛み、カップの縁に指をそっと沿わせた。
「また……疲れて倒れたりしないといいんですけど……」
「うん。でもね、あの子は人に頼るのが苦手だからな。心配しても、届かないときもある」
「……本当に、そうですね」
ナツが目を伏せたそのとき、店のドアがカランと開いた。
「あ、おじさん。コーヒーふたつお願い」
「おう、ゆうにさなか。ナツちゃんが来てるよ」
現れたのは、雪の旧友、ゆうとさなだった。
マスターがふたりに声をかけると、ゆうがナツの方をちらりと見て、わざとらしく眉を上げる。
「……雪は?」
「まだ」
「もしかして…」
「1時間くらい待っているんですけど」
「またか…」
「また?」
ナツが戸惑って聞き返すと、ゆうとさなはナツの隣のテーブルに腰を下ろす。
「予定、すっぽかすの。あの子、昔からだよ。寝坊したとか、急に予定入ったとか、理由はいろいろ」
「でも、雪さん……そんなこと、私とは一度も……」
「ナツちゃんは、どこで雪と知り合ったの?」
さなが突然尋ねた。ナツは一瞬言葉に詰まり、作ってあった“嘘”を口にする。
「ネットで、水月さんのファンの掲示板を通じて……」
「へぇ、雪がネットなんてやる時間、よくあったね」
ゆうがからかうように笑い、さなが興味深そうに身を乗り出す。
「で? ふたりは……どこまで、いったの?」
「えっ……?」
耳元にさなが顔を近づけて囁くように問う。その声の湿度に、ナツの顔が一気に赤くなる。
「ふふ、反応でわかるよ。……最後まで、ね?」
「そんな……」
ナツが困惑したように視線を泳がせると、今度はゆうが笑いながら肩をすくめる。
「……雪、うまい?」
「や、やめてください……」
ナツが小さく身を縮めたそのとき、ゆうがさらりと漏らした。
「半年くらい前だったかな。あの子から珍しく連絡あってさ。“女の子との関係って、どうするのが正しいのか”って聞かれたよ」
その瞬間――カラン、と鈴の音が鳴り、扉が開いた。
店内の空気がすっと張り詰める。
雪だった。
けれど、その姿はいつもの彼女とは違っていた。
髪は少し乱れ、目の下には濃いクマ。
明らかに疲労が色濃く浮かんでいた。
「ごめん……遅くなった」
声にも力がなかった。
「雪さん……」
ナツが立ち上がろうとしたその瞬間、雪の視線がゆうとさなに向けられる。
「ゆうさん、さなさん。ナツを……いじめないでください」
その声は震えていたが、まっすぐだった。
ゆうが笑って肩をすくめる。
「1時間以上も待たせて、それはないんじゃない?」
「……やめてください」
ナツは恐る恐る言葉を放つ。
「他の予定が……長引いちゃって……」
ナツはゆっくり頷いた。
「うん……来てくれて、ありがとう」
その優しさに、雪の目が一瞬だけ潤む。
しかし、ゆうは引かなかった。
「それだけ? 1時間も待たせて」
「……」
「そんなふうにしか謝れないなら、最初から約束しないほうがマシだよ」
雪が顔を伏せかけたとき、ゆうは低く言った。
「ねえ、私があんたに言える最後の言葉だから、ちゃんと聞きなよ。」
ゆうの目が、まっすぐに彼女を射抜く。
「あんたは、欲しいものがあると、一直線に走っていく。でも、人間はね、すべてのことに全速力なんてできない。どこかで力を抜かなきゃ、いつか全部失うよ」
雪は小さく「わかってる……」とつぶやいたが、ゆうはそれを切り捨てるように言った。
「わかってない。あんたの全部見てたからわかる。Springのオーディションに何を懸けてたのかも。でも、それで何が得られた?結局なにもっ」
「ゆう……もうやめて」
さなが、そっとゆうの肩を押さえて続ける。
「でも……ゆうの言いたいことも、雪はちゃんとわかってるよね?」
静寂のなかで、雪はただ、ゆっくりとうなずいた。
「ナツ…ごめん。遅れたこと謝る」
「うん…雪さんが無事でよかった」
「ほんと…ごめんね」
「うん…」
するとさながナツに目配せをし、別の席へと導いた。
「喧嘩、びっくりしたよね?」
「はい……」
「ゆうと雪は、昔から喧嘩しあえるくらいの仲なの。でも、ほんとはとても仲が良かったんだよ。……ねぇ、知ってた? 昔ふたり、“水月”と“葉月”になりきって連絡とってたの」
「……え?」
ナツの胸が、かすかに震えた。
「ゆうが、雪に告白して、で、雪はその想いを受け入れなかった。そこから、ふたりの関係は変わっちゃったみたい。ヤキモチだと思う。でもね……」
さなはナツの目をじっと見つめた。
「ナツちゃん、これから先も雪と一緒にいたいと思うなら、覚悟が必要だよ」
「覚悟……」
「同性同士ってだけでも、世の中はまだ冷たい。そこに“芸能人と一般人”って差が加わる。ほんの少しのことで、大事な人が傷つくことだってある。……でも、雪はたぶん、本物になるよ。次のアイドル界を引っ張る子になる。だから……」
ナツはそっと唇を結んだ。指先が震えていた。
「……私、覚悟します。雪さんと、ちゃんと向き合いたいから」
「うん。……なら、大丈夫だね」
ふたりは席を立った。
店に戻ると、雪はもう、いつもの凛とした笑みを浮かべていた。
その横で、ゆうもそっと視線をそらして、静かにコーヒーを啜っていた。
ナツはそっと、雪の手に触れる。
「さっきは…ごめんね」
「ううん、雪さんきてくれてありがとう」




