29.Springの2次試験
試験会場の空気は、冷たいというより、張りつめていた。
重たい扉を開けると、すでに10人ほどの受験者たちが整然と並び、椅子に腰をかけていた。
誰もが物音ひとつ立てないまま、ナツの方に視線を向ける。
見られている。それだけで、ナツの足取りはぎこちなくなった。
「午前の部が終わったばかりですので、少しお待ちいただきます。まずは作文試験、そのあと面接です」
事務的な声で、案内係の女性がそう言った。
ナツは促されるままに、会場の後方にある空席に腰を下ろした。
椅子の硬さが妙に気になる。深く息を吸い、胸をなで下ろす。大丈夫、大丈夫。
鞄から、シャープペンを取り出したとき、頭の中にふと雪の声が浮かんだ。
「応援してるからね。ナツちゃんなら、大丈夫」
受かりたい。雪に、いい報告がしたい。
試験官が歩み寄ってくる音が聞こえた。
原稿用紙が、順に一枚ずつ配られていく。
6枚の紙束がナツの前に置かれたとき、目が思わず細まる。
……これ、200字詰め?
普段、見慣れている400字詰めの原稿用紙とは、行数もマス目の大きさも違う。
【お題:1000字以内で“アイドル”について作文しなさい】
ナツはペンを握り、深く息を吐いた。
時間はすでにカウントを始めている。
頭の中で、構成を考える。
“アイドル”――それは、ナツにとって夢であり、光であり、そして雪そのものだった。
たくさんの努力と犠牲の先に、ほんの一握りだけが立てる舞台。
キラキラと見えるその裏で、どれほどの苦しみと痛みを雪が抱えていたか。
ナツは誰よりも今間近で見ている。
――私が、それを書く。
ナツのペン先は、静かに動き出した。
“アイドルという存在に、私はどれほど救われてきただろう。
辛いことがあった日も、彼女たちの笑顔に励まされ、前を向けた……。
文字を積み重ねていくたびに、心が澄んでいく。伝えたい思いが、ひとつひとつ輪郭を帯びていく。
書き終える頃には、手の中のペンがじんわりと温かくなっていた。
「やめ」
その号令と同時に、ナツはペンをそっと置いた。
会場の中が、再び沈黙に包まれる。
面接までのあいだ、ナツは静かに席で待っていた。
ふと、隣の席に座っていた女の子が、こっそり顔を伏せて肩を震わせていることに気づいた。
「……大丈夫ですか?」
ナツが声をかけると、女の子はかすかに顔を上げ、赤く腫れた目元で答えた。
「ごめんなさい……さっきの原稿用紙……400字詰めだと勘違いして、字数、足りてないかもしれなくて……」
ナツの胸が、じくりと痛んだ。
――最初に気づいた違和感。
あれに気づけたのは、偶然だった。
でも、その“偶然”が、命運を分けることだってある。
ナツは、震える彼女の背中をそっと撫でた。
励ます言葉は見つからなかった。
面接は思ったよりも順調だった。
緊張はしていた。けれど、自分の言葉で語れた。
試験会場を出たとき。
「――あのっ」
背後から、声がかかった。
振り返ると、そこにいたのは、あの涙を浮かべていた女の子だった。
「さっきは……慰めてくれてありがとう」
「いえ、私は何も」
「ううん。あなた……受かると思う」
「えっ?」
「なんか、すごく伝わってきた。入りたいって気持ちが。私、今は証券会社で働いてるんだけど、毎日が息苦しくて……本当はずっと、こういう世界に憧れてた。でも、年齢とか、現実とか……全部理由にして逃げてたの」
「……証券会社? 私も、そうです!」
「えっ!? 本当に!?」
ふたりは思わず顔を見合わせ、驚きのあとに笑い合った。
「同じ業界の人に会えるなんて、思わなかった……あなたみたいな人と、同期になれたらうれしいな」
「私もです……3次試験、会えたらいいですね」
「うん、絶対会おうね」
そう言って、女の子は笑顔で手を振って去っていった。
ナツはその背を見送りながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
外に出ると、いつの間にか雨はやみ、厚い雲の隙間からやわらかな陽射しが差していた。
「……雪さん」
ナツは、小さく空を見上げてつぶやく。
――応援してくれて、ありがとう。
私は今、ちゃんと前に進んでるよ。