2.雪との出会い
空は、泣き出しそうなほど灰色にくすんでいた。
どこか心細くなるような空気が、ナツの胸の奥をそっと撫でていく。
ドキドキという心臓の音が、鼓膜の裏で響いていた。
これから会う相手は、名前も顔も、本当は何も知らない。
ただ、文字だけを交わして、心を預けてきた――そんな人だった。
向かったのは、東京・下町にある喫茶店「花」。
時代から取り残されたような、木造の引き戸と、曇った窓ガラス。
外からのぞくと、中は淡いランプの光に包まれ、静かな時間が流れていた。
ナツは少し早く着いて、入り口の前で立ちすくんだ。
そして、コツ、コツ、と乾いたヒールの音が背後から聞こえた瞬間――
「ナツちゃん?遅くなってごめん」
その声に振り返ると、そこにいたのは、まるで夢から抜け出してきたような女性だった。
長い黒髪が、風にふわりと揺れる。
白い肌にくっきりと映える大きな黒目。まん丸の瞳がこちらを見つめていた。
黒のロングスカートから覗く脚は、透けるように細くて、儚げだった。
唇は赤く、艶やかに光っていた。
ナツより5センチほど背が高いはずなのに、ヒールのせいでその差が一層際立っていた。
その美しさに、ナツは息を飲み、喉を鳴らした。
これが……雪さん……?
「は、初めまして。ナツです。……雪さん、ですか?」
「うん、そうだよ。変な格好してたから、トイレで着替えてたら遅くなっちゃった。ごめんね。入ろう?雨、降りそう」
その微笑みは、まるで映画のワンシーンのようで――
ナツは呆けたように「はい」と頷いた。
店に入ると、カウンターの中のマスターが手を止め、ふたりに気づいて顔をほころばせた。
「やあ、雪。久しぶりだな」
「おじさん、久しぶり。今日はお友達と来てて」
「お友達?かわいい子だね」
「そうでしょ?ナツちゃんって言うの。大阪から来てくれたのよ」
「ナツちゃん、よろしくね」
ナツは緊張したようにぺこりと頭を下げた。
マスターと雪が親しげに言葉を交わす様子に、少し安心する。
席に着くと、ナツはふと尋ねた。
「よく来られるんですか?」
「うん。ここね、水月さんのお父さんがやってるお店なの」
「え……ええっ!?!?!?」
ナツは反射的に立ち上がってしまった。
大好きだった“水月さん”の、お父さんの店――
まさかそんな場所に連れてこられるなんて、夢にも思わなかった。
「ふふふ」
「す、すみません!まさか……水月さんのお店に来られるなんて思ってなくて」
周囲の視線を感じ、ナツは頬を赤らめながらそっと腰を下ろした。
「そりゃ驚くよね。でも、ナツちゃんにはどうしても紹介したかったんだ」
「ありがとうございます……私、その……」
言いかけたところで、マスターが水を持ってやってきた。
「どうした?」
「ナツちゃんに、水月さんのお店だって伝えたんですよ」
「おお、そうか。ナツちゃんも水月のファンなのかい?」
「はい、ずっと応援してました」
「ありがとうな。……雪、元気だったか?レッスン、大変だろう」
「うん、でも頑張ってる。楽しいよ」
「そうか、それならよかった。……水月はね、フランスに留学するんだ。しばらく日本には戻ってこない」
「そうなんですか……寂しいですね」
「帰ってきたら連絡してやるよ」
「ありがとうございます!」
「で、今日は何にする?」
「うーん、私はカフェオレにしようかな。ナツちゃんは?」
「あ、えっと……」
メニューを開く手が震える。
その隙間から、まっすぐにナツを見つめる雪の瞳がのぞいた。
(水月さんや葉月さんよりも、大人で……綺麗……)
「おじさんのカフェオレ、おいしいよ」
「じゃ、じゃあ私もカフェオレで……!」
「カフェオレ二つね、おじさん」
「了解!」
マスターが奥に消えていくと、ふたりの間にふたたび静けさが戻る。
そんななかで、雪が切り出した。
「ナツちゃん、私ね。Autumnの研究生なの」
「えっ……!!!!」
あまりの驚きに、ナツは口元を手で覆った。
「ごめんね、びっくりさせてばかりで」
「いえ……でも、なんとなく気になってたんです。雪さんがとても綺麗で、どんなお仕事されてるのかって……」
「そんな、綺麗じゃないよ。研究生って言っても、まだお給料も出ないし。夜は居酒屋でバイトしてるの」
「そうだったんですね……でも、なんで私に……?」
「……寂しかったの。水月さんもいなくなって、レッスンもきつくてさ。
そんな時にナツちゃんのサイトを見つけたの。
ナツちゃんの描く水月さん、とっても優しくて、可愛くて……まさに私の憧れるアイドルだったから、癒されたの」
ザアアアア――。
突然、窓を叩くような雨音が響く。
雪はその音に目を向け、ぽつりと呟いた。
「そういえば……あの日も、雨だったな」
「あの日?」
「……ううん、なんでもない」
曖昧な微笑みの奥に、何かを隠すような気配があった。
「雪さんは、いつからAutumnに?」
「今年の4月から。もう4ヶ月。けど、全然ついていけなくて……この前の内部オーディション、下から2番目だった」
「そんな……大変なんですね……」
「2年でデビューできなかったら諦めろって言われてるの。だから、レッスンが終わった後も習い事してるんだ」
その時、タイミングよくマスターがカフェオレを運んできた。
「ナツちゃん、雪はね。Autumn入る時、お父さんに猛反対されたんだよ」
「やめてよ、おじさん!ナツちゃんにカッコ悪いとこ知られちゃうじゃん」
「反対……?」
「うん。私、本当は弁護士目指してたの。うちは家族全員弁護士で……でもアイドルになりたくて、夢を選んだの」
「すごい……」
「でも、もし辞めたら……また目指さなきゃいけないのかな、って思うと、ちょっと怖くて」
その横顔は、さっきまでの笑顔とは違っていた。
綺麗で、大人びていて、それでも少し寂しそうだった。
ナツは思い切って言った。
「また、会ってくれますか……?“葉月”じゃなく、“雪さん”として」
雪は、ふわりと笑った。
「もちろん。またすぐ夏休みだし、今度は私が大阪に行くよ」
「本当ですか!?嬉しいです!」
「お盆になっちゃうけど、連絡するね」
「はい!」
その帰り道、ナツの心を占めていたのは――“雪”というひとりの、まっすぐな女性のことだった。
綺麗で、優しくて、そして、夢に向かって走る彼女の姿が、
ナツの胸の奥に、熱い灯をともしていた。