28.かけら集め
次の日の朝、風はやわらかく、空はどこまでも高かった。
ナツと雪は、喫茶店「花」の扉を押した。
ドアベルの澄んだ音が響くと、カウンターの奥から、見慣れたマスターが顔を上げる。
「おや、雪。脚はもういいのか?」
「おじさん、もうすっかり。レッスンにも復帰しました」
「そりゃ良かった。ナツちゃんも、また来てくれてありがとうね」
「こちらこそ…お邪魔します」
ほっとするような、コーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。
「おじさん、聞いて! ナツね、Springの編集部の一次試験に受かったんだよ!」
雪の声には、まるで自分のことのような喜びがにじんでいた。
「おお、それはすごい! 競争率、相当高いんじゃないのか?」
「まだ一次だけなので……浮かれるのは早いです」
ナツが控えめに微笑むと、雪が横からすかさず口をはさむ。
「でもね、ここのカフェに来て、願掛けしたいって言ったのはナツなんだよ?」
「へぇ……それはうれしいねえ」
マスターが頷きながら、カウンターの奥へと戻っていく。
「カフェオレ2つ、お願いします!」
「了解!」
少しして、マスターがくるりと振り向いた。
「ああ、そうそう。今日な、ゆうちゃんとさなちゃんが来るって言ってたよ」
「……そう、ですか」
雪の顔に一瞬だけ、陰がさす。
「雪さん、ゆうさんって?」
「うん、私にAutumnの試験を勧めてくれた人。……でも」
雪は小さく息を吐いて、ナツだけに聞こえるように小声で話す。
「……昔、告白されたことがあって。でも私はその気持ちに応えられなかったの。それから、なんとなく顔を合わせにくくなって」
「さなさん、っていうのは?」
「ゆうさんの親友。二人とも、昔からの知り合い」
「そう…なんですね」
話を聞いたナツが複雑な心境になっている間に、喫茶店の扉がふたたび鳴った。
背の高い、ジェンダーレスな雰囲気をまとった女性と、快活そうな小柄な女性が現れる。
「マスター、コーヒー2つ!」
さなが明るく声をかけたあと、ふたりはこちらに歩いてくる。
「あ、久しぶりじゃん、雪」
ゆうが、柔らかく笑った。その横顔はどこか憂いを帯びていて、凛とした美しさがあった。
「ゆうさん、お久しぶりです」
「ケガしたって聞いたけど……もう大丈夫?」
「はい。もう、この通り元気いっぱいです」
「そっか……で、その子は?」
「あ、ナツと申します。初めまして」
ナツは、少し緊張しながら頭を下げた。
「さな、雪がこんな可愛い子を連れてるなんてね。ちょっとびっくり」
「そ、そんな……」
「で、二人ってどんな関係?」
「ゆう、早いよ」
雪は小さく笑ってから、ナツの肩に手を置く。
「いじめないでくださいね。私が大事にしてるんです」
その言葉に、ゆうとさなが目を丸くする。
「へえ……めずらしい」
「ほんと。雪がそうやって誰かを“守る”ようなこと、今まで見たことない」
「雪さん、今までそういうのなかったんですか?」
ナツがぽつりと問うと、さなが答える。
「なかったね。雪は……一人で生きてく、そういう人だと思ってた」
そのとき、カウンターから香ばしい湯気とともにカフェオレとコーヒーが届く。
「お待たせ。今日はにぎやかでいいね」
「雪がこんな可愛い子を連れてくるなんて、想像してなかったよ」
「わざわざ大阪から来てるんだ、ナツちゃん、ゆっくりしていって。」
マスターが微笑みながらそう話して、カップを置いて去っていく。
「えっ、そうなの!?」
さなが驚くと、ナツが慌てて両手を振る。
「ち、違います! 今日はたまたま……Springの編集部の試験があって、それで……」
「Spring…?」
ゆうが、ふと表情を引き締めて、ナツの目を見た。
「Springの編集部の一次試験に通ったの。だから、うちに泊まって。今からその試験に行くところ」
雪が、ナツの横で静かに補足した。
「へえ……それはすごいね」
ゆうはそう言いながらも、視線の奥に読み取れない色を灯していた。
「なんだか……雪のオーディションの時を思い出すなぁ」
さながぽつりと呟くと、雪は小さく目を伏せた。
自分の知らない“昔の雪”が、この空間には確かに存在している。
そんな感覚が、ナツの胸をくすぐりながらも、“昔の雪”のかけらを拾い集めるように話に耳を傾けていたナツ。
やがて、時計の針が昼を回った時、雪が立ち上がった。
「ナツ、もう行かないと。試験の時間だよ。私もレッスンに行かなきゃ」
「……うん!」
ふたりはマスターにお礼を告げて、店を後にした。
秋風が通りすぎる街を、並んで歩く。
雪の横顔がやさしくて、ナツの緊張が少しだけほどけていく。
「がんばってね」
「うん……ありがとう、雪さん」
「大丈夫。ナツなら、絶対受かる。だって、私が惚れた女の子だもん」
「……もう、それ、試験前にずるいです」
ナツは、2回頬を軽くたたくと真面目な顔になる。
雪はその背中を見送り、まるで祈るように手を握りしめた。
夢の場所、Spring本社。
ナツは扉を開けて、その中へ――未来へと足を踏み入れた。