26.むさぼる
――10月末。
スーツを抱えたナツは、少し背筋を伸ばして雪の家のインターホンを押した。
ピンポーン。
数秒後、ドアが開き、現れたのは、あの日とはまるで別人のように元気な雪だった。
「ナツ!」
笑顔のまま手を広げる彼女に、ナツの胸の奥がふわりとほどける。
「雪さん……脚、本当に良くなったんだね」
「うん。もう踊れるようになった。でもね、結局、内部オーディションは最下位だったの」
「それでも……また踊れるようになった。それだけで、私はすごいことだと思う」
ナツのまっすぐな眼差しに、雪は目を伏せ、照れたように小さく笑った。
「ありがとう。……さ、中入って」
「お邪魔します」
雪がキッチンに向かう間、ナツは言われた通り彼女の部屋へ。
本棚に目をやると、並ぶ就職活動の本。その一冊が開かれていて、つい視線を落とす。
“将来設計”の文字の下には、雪がかつて付き合っていた相手の名前。そして、“子供を持つ前提の家庭像”が、真っ直ぐな文字で書かれていた。
胸が、ちくりと痛む。
――こんな未来を、本気で考えてたんだ。
そこへ、湯気のたつカップを載せたお盆を手に、雪が戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……」
一瞬だけ、気まずい沈黙がふたりの間をかすめた。
「……明日、試験だいじょうぶ?」
「うん。でも、その前に、ちょっと喫茶店に寄ってもいい?」
「もちろん。私はレッスンがあるから長くはいられないけど……」
「ありがとう。試験の前に……水月さんのお父さんの喫茶店にゲン担ぎに行きたくて」
「……水月さんは、ナツにとってもそれだけ大きな人なんだね」
ふと、雪の笑顔が揺らぐ。影がさすように。
「……ねえ、Autumnのオーディションのダンス。あとで一緒にやってみない?」
「ほんとに?」
「うん。お茶を飲んだらね。歌も、聴かせて?」
「うん……ありがとう。雪さんがいてくれて、心強い」
――ふたりは、空き部屋へと移動し、練習が始まる。
ナツのダンスはまだ粗削りだった。それでも、どこか水月を彷彿とさせる。
まっすぐで、可憐で、どうしようもなく光を放つ踊りだった。
その光に、雪は一瞬、目を細めた。
胸の奥に沈めたはずの感情が、あの日の痛みとともに再び浮かび上がってくる。
水月に振られたあの夜。
――いま、自分の目の前で、ナツが同じように踊っている。
「雪さん……?」
動きを止めた雪に、ナツが心配そうに近づいた。
「……あ、ごめん。なんでもないの」
「なんでもなくないよ。……顔、すごく、寂しそうだった」
ナツがそっと、雪の頬に触れる。
そのまっすぐな瞳に、雪の中のなにかが、音を立てて崩れた。
「……ナツ、そんな顔しないで……お願いだから……」
抑えきれなかった。
気づけば、雪はナツの頬を両手で包み、唇を奪っていた。
ふれた瞬間、ナツの肩がわずかに震えた。けれど、拒むことはなかった。
唇と唇が触れ合い、ふたりのあいだに存在していた境界線が、ゆっくりと溶けていく。
嫉妬も、不安も、焦がれるような思いも――
雪はそっと唇を離し、目を伏せる。
「……ごめん。私、今日ちょっとおかしいかもしれない」
けれど、ナツはそっと自分の唇を指でなぞり、首を横に振った。
「大丈夫……だけど……雪さんはだいじょ……っ」
言い終わる前に、雪の唇が再び重なる。
激しく、飢えるように。
唇を塞がれたナツが驚いて身を引こうとするも、雪の手が彼女を壁際へ押し留めた。
「……っ雪、さん……」
言葉がこぼれる間もなく、雪の手がナツの服の裾へと滑り込み、その細い腰をなぞりながら、迷いなく胸元へと登っていく。
ナツの呼吸が、浅くなる。
見つめ合う瞳の奥、理性の灯がかすかに揺れながらも――
雪の瞳に映るナツは、ただ、無垢で、あまりに愛おしかった。
「……ナツ、ごめん、もう止められない」
耳元でささやかれたその声に、ナツは目を閉じた。
何も言えないまま、されるがままに。
熱を帯びた指が、肌をなぞり、内側をひらいていく。
唇が、鎖骨を、胸を、愛しむように這いながら――
ふたりの世界は、静かに、そして深く、堕ちてゆく。