17.突然の連絡
夏の終わりが近づく頃、ナツの生活は一変していた。
朝は少し早めに起きて、出勤前のオフィスの休憩室で軽くステップを踏む。
昼は課題曲をイヤフォンで繰り返し聴き、仕事中も机の下でストレッチ。
終業と同時に走るようにスタジオへ向かい、深夜まで鏡と向き合う日々。
ナツは、今までにないほど自分を追い込んでいた。
きっかけは、雪から届いた一本のメッセージだった。
『ナツ、レッスン頑張ってる?
この前、同期の子にオーディションで見本を踊る子の振りをちょっと見せてもらったんだ。
だから、こっそりナツに教えるね』
添付された動画を再生した瞬間、胸の奥に熱が灯る。
画面の中、雪が軽やかに踊っていた。指先から足の運びまで、まるで音楽そのものに魂を乗せたように、美しく、眩しかった。
「……素敵」
言葉が漏れる。
知っていたはずだった。雪が踊れることも、彼女が本物のアイドルであることも。
けれど、画面越しの彼女はあまりにも完成されていて、自分との距離に、ほんの少しだけ涙が滲んだ。
「やらなきゃ……私、あきらめちゃだめだ」
胸の奥にあった不安と憧れが、燃えるような決意に変わる。
動画を何度も巻き戻しては、一つ一つの振りをなぞる。
まるで雪の動きを手探りで追いかけるように。届かなくても、近づきたくて。
そんな日々が続いたある金曜日の夕方。
突然、スマホの通知が鳴った。
『過労で倒れて、脚骨折しちゃった。
10月のオーディション、間に合わない』
時が止まったような気がした。
「うそ……」
指が震える。すぐに返信を打ち込む。
『雪さん、今どこ? 病院?』
『東京病院。今点滴してて、しばらくかかりそう』
その返信を読み終える前に、ナツはすでに走り出していた。
バッグも中身を確認せず、財布とスマホだけ握って新幹線の改札へと駆け込んでいた。
病院にたどり着いたのは、夜の8時を回った頃。
「雪さん!」
個室のカーテンを開けた瞬間、ベッドの上で点滴に繋がれていた雪が顔を上げた。
「ナツ……!? どうしてここに……」
目を丸くする雪の頬は、涙をぬぐった跡がある。その姿に、張り詰めていた気持ちが一気にほどけて、ナツの頬に熱いものが伝った。
「なんで……雪さんが骨折なんて……あんなに頑張ってたのに……!」
雪の隣に膝をつき、顔を伏せる。涙がぽたぽたと落ちる。
「ナツ……ありがとう。わざわざ来てくれたんだね。遠かったでしょ?」
優しく、雪がナツの髪を撫でる。
その手の温度が、ナツの頬に染みた。
「そんなの……当たり前です。雪さんが、こんなに……」
「顔、上げて? これはね、私の不注意。だから大丈夫だよ」
「でも……」
「内部オーディションは無理かもしれない。でも、歌だけなら参加できる。だから私、諦めないつもり」
その言葉に、ナツは涙を拭って、頷いた。
「……私も、諦めません」
ちょうどそのとき、看護師が入ってきた。
「点滴終わりましたので、今日はもう帰って大丈夫ですよ。お会計のあと、保険証をお返ししますね」
「ありがとうございます」
雪はそっとベッドから身体を起こし、傍らに置かれていた松葉杖に手を伸ばす。
「ナツ、悪いけど……お会計お願いできる?」
「もちろんです」
差し出されたカードを持って、ナツは受付へと向かった。
だが受付で返却された保険証の西暦に目がとまる。
「……え?」
確か、雪さんは“ひとつ上”って言ってたはず。でも……この生まれ年は、二つ上。
小さな違和感が、胸の奥でひっそりと芽を出した。
戻ろうとすると、廊下の先から松葉杖をついた雪がゆっくりと歩いてきた。
「ナツ、ありがとう。助かったよ」
「……ううん」
「タクシー呼んであるの。もう遅いし、今日はうちに泊まっていきなよ?」
「え?」
「ナツのこと、心配だもん。いいでしょ?」
少し迷って、ナツはうなずいた。
「……はい。ありがとうございます」
二人は夜の病院を後にし、東京の静かな街へとタクシーに揺られていった。
胸の奥で、小さな疑念が、ほんの少しだけ揺れていたことを――ナツはまだ、どう処理すればいいか分からなかった。