序章
ポツポツと、傘の縁から滑り落ちた雫がコートの肩を静かに濡らす。
街灯に照らされたアスファルトは黒く光り、足元に水たまりが映る。
ナツはそのひとつひとつを避けるように歩きながら、久しぶりの実家へと急いでいた。
33歳になった今、もうすっかり東京暮らしが板についたけれど――
こうして地元・大阪に帰る日は、いつも決まって雨が降る。
「ただいまー……もうすごい降ってきた」
玄関を開けると、母がキッチンからタオルを片手に走ってきた。
ナツの顔を見るなり、少し呆れたように笑う。
「ほんと、あんたが帰ってくる日は必ず雨ね」
言いながら、濡れたカバンをていねいに拭いてくれる。
その手つきが、少しだけ年を取ったように見えた。
思い返せば、卒園式も、遠足も、修学旅行も。
アルバムを開けば、どのページにも傘をさした自分がいた。
「生まれた日も雨だったのよ。あんたは筋金入りの雨女」
そう言って、母は懐かしそうにナツの顔を見つめた。
何気ない一言に、ナツは妙な納得を覚える。
――雨は、ずっと自分と共にあったのかもしれない。
「いつまでいられるの?」
「3日後には帰るよ。仕事あるしね」
「そう。……でも、いつでも帰ってきていいのよ」
ナツは小さくうなずいた。
かつてはバリバリのキャリアウーマンだった母も、今は定年を迎え、
週に数日だけパートに出るだけの穏やかな生活をしている。
(本当は、孫の世話でもしたいのかな……)
ふと、心の奥にチクリと痛みが走る。
結婚もしていない自分に、どこか後ろめたさを感じるのが嫌だった。
「……ありがとう」
「帰りは晴れるといいわね」
母の声を背に、ナツは階段を上って、2階の自室へ向かう。
ドアを開けると、10年前のまま時間が止まっているようだった。
ポスター、机の上の文房具、アイドルの雑誌――すべてが、変わらずそこにあった。
そうだ。
10年前のあの日も、やっぱり雨だった。
ナツは、机の引き出しに手を伸ばす。
奥からそっと取り出したのは、1枚の写真。
「……雪」
写真には、あどけない笑顔を浮かべるナツと、隣で微笑むもう一人の女性――雪の姿があった。