85 ティーダの地
連絡船から下りると肌を差すほどにジリジリと暑く、眩しい太陽がアッシュを照りつける。思わず片目を閉じ、手で影を作って降り立った。何日かぶりの揺れない地面に思わず安堵のため息が漏れる。
「移動中に天気が荒れなくて良かったねぇ」
ティーダ藩の太陽のように陽気な笑顔をヒルデはアッシュに向ける。
「ああ。台風の場合もあるって聞いたときはどうなるかと思ったが、何事もなくて良かったな、本当に」
ティーダ藩はエジルバ王国よりも南に位置しており、暑くなると台風のような自然の災害に見舞われることがある。台風に遭うと転覆する恐れもあると聞いていたが、移動中は天気に恵まれたので安心した。
「ここが、オノコロノ国、ティーダ藩、何だよな」
目の前の光景はエジルバ王国とは何もかもが異なる未知のものだった。
一階だけの平屋が多く、その周りを背が低い石垣で囲んでいる。玄関はないようで縁側のようなものが広がっているのだが、短い石の壁が視界を遮っており、外から中が見えないようになっている。
遙か先には他よりも立派な建物があり、屋根は赤く、その家の周りに生える植物も見たこともない鮮やかな色をしたものばかりだ。それが雲一つない青空によく映える。
聴いたことがないほど軽快で楽しげな音楽が耳に入ってきた。
エジルバ王国から海を挟んだだけなのに、アッシュの知らない世界が目の前に広がる。
その土地で生み出された彼の知らない文化や建物にどうしようもなく胸が躍る。
「アッシュ君、メチャクチャ嬉しそうだね。まぁ、僕もわくわくしちゃってるから、わからなくもないけどね」
聞こえてくる音楽に合わせてヒルデは鼻歌を歌う。その顔を見れば、アッシュだけが楽しみにしていた訳ではないことがわかった。
観光と言うことで目的もなく街を歩くことにした。ティーダ藩の中心ということでユルの街は賑わっていた。ただ歩くだけで活気のある声が聞こえてくる。
店頭に置いてある魚も濃い青や緑の色を纏い、鮮やかに輝いている。それはまるで魚ではなく、宝石を並べているように見えた。
「凄いな、こんな色の魚が海を泳いでるんだな」
「僕の生まれたところでも見たことないよ、こんな綺麗なの」
他の店もゆっくりと見て回り、屋台で買ったものを二人で食べ歩きをしていると気づかぬうちに狭い裏路地に入ってしまったらしい。人の気配もなく、静かだ。
「悪い、表通りから外れたみたいだ」
「僕も食べるのに夢中になってたから、気づかなかったよ。仕方ないね、戻ろうか」
踵を返したとき、人の声が聞こえてきた。
「は、離してください」
「別にいいだろう。こんな人気がないところに居たってことはあんたも期待してたんだろう?」
「そもそも、ティーダ藩の人間であるお前に拒否権なんてないんだよ」
声からして拒絶しているのは女性で、あとの二人は男性のようだ。会話を聞く限り、ポセンの街で聞いた騎士と同じようにティーダ藩の女性に無体なことをしようしているらしい。
ヒルデが力強く頷いたのを確認すると、アッシュは彼女の手を握り、耳元で囁く。
「俺に合わせてくれ」
「う、うん」
何故か、ぎこちない返事をする彼女に首を傾げたが、今は気にせず、アッシュは大きな声でヒルデに話しかける。
「夢中になってたら、裏路地に入ったみたいだ。ここ、どこだろうな」
「そ、そうだね。どこだろうね」
手を握ったまま、声のした方に歩くと、男たちが一人の若い女性を壁に追い込むようにして囲っているのが見えた。突然、アッシュたちが現れたことで二人ともこちらを向いて目を丸くしている。
二人の男はポセンの街で見た男たちと同じような騎士の服装をしていることから、やはり、リセイン侯爵領の騎士だったようだ。