268 柔らかな頬
「どうしたんだろうな、アオイさん」
あの紙に彼だけしかわからない何かがあったのだろう。彼がアッシュたちに持たせてくれたものと書いてある文字や模様の特徴などが違うように感じたが、それ以上考えても答えは出なかった。
「って、あれ。ヒルデ?」
いつも返事をしてくれるはずのヒルデの賑やかな声が聞こえないことで彼女が近くにいないことに気づいた。周囲を見回すと狛犬の前に立ってキョロキョロと顔を動かし、小首を傾げる彼女の姿が目に映った。
「何してるんだ?」
アッシュが声を掛けると彼女は振り返った。
「アッシュ君、ネコちゃんいないよ」
「ああ、やっぱり、虎の狛犬はあそこだけだったんだな」
お互いに向かい合い狛犬が鎮座しているが、それは山に入る門の前にいたような虎の姿ではなかった。寺に祀られているという毘沙門天が虎に所以があるからそうだっただけで、あそこが特殊だっただけなのだ。
「それもそうだけど、僕が今言ってるのはあのあんまり可愛くないおっきいネコちゃんの方だよ」
「そういえば、いないな」
辺りにはアッシュたちだけしかおらず、鵺の姿はどこにもなかった。ここにいないということはあの間の世界にまだいるということだろうか。
「…結局何がしたかったんだろうな鵺は」
ハヅキを連れ去り、アッシュたちが迷わないように足跡を残していたことから奥にまで来てほしかったのは間違いない。
しかし、そこまで行ったにも関わらず、鵺は見ているだけで最後まで何もしてこなかった。鵺だけでなく、その主の狙いが何だったのか未だに見えてこない。
「ぅう~ん。あの黒い龍とアッシュ君の刀を会わせたかったとか?」
「…俺もそんな気がするんだが、回りくどすぎないか」
本当に会わせたかったのならば鵺の主がアッシュたちの前に出てきて説明すればよかっただけだ。間違っても神々を害し、間の世界の平穏を脅かす必要などなかった。
心地よい風が吹き、葉が擦れる音だけが辺りに響く。その涼しい風を受けてアッシュはタカオカミを封じていた氷を思い出した。神に喧嘩を売ってまで鵺の主が得たかったものとは何だったのだろうか。
「それに」
アッシュは腕の中で気持ちよさそうに寝ているハヅキに目を向ける。
どんな理由があるにせよ、彼女のような小さい子を唆し、危険にさらしたことは許されることではない。
「まあ、考えても仕方ないか」
「そうだね。今はこの子を送ってあげることの方が大事だね」
ハヅキの顔を覗き込んだヒルデが子供特有の柔らかな頬をフニフニと突きながら答える。くすぐったかったのかゆっくりと瞼を上げ、ハヅキが目を覚ました。
「…ヒルデお姉ちゃん?」
「そうだよ、おはよ。ちなみに君を抱き上げてるのはアッシュ君ね」
ヒルデの言葉を聞くとハヅキは顔を上げてこちらを向いた。
「ハヅキちゃん、何があったか覚えてる?」
アッシュの問いかけにハヅキは思い出そうとしたようだが、少しすると首を横に振った。
「朝にね、山に入ったの。でも、それからはわかんない」
「そっか。調子は大丈夫?」
ハヅキは何を言っているのだろうというように目を丸くし、悩むように頭を動かすと小さく頷いた。
おそらく、暗部山に入ってすぐ鵺に目を付けられ、今まで気を失っていたのだろう。何があったかなど詳しく聞けないのは残念だが、鵺に連れ去られ、あのような魑魅魍魎が溢れる世界のことを覚えていなかったのは幸いだったかもしれない。
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