223 天狗と鵺
シゲルにとってゲンは実におかしな男だった。大人も子供も皆腫れ物に触るかのような態度しか取らないのに対し、普通の人として彼はシゲルと接してくれる。
空気が読めないのかと言われればそうではなく、父親との確執などシゲルの家の諸々の事情を知っているため今も何故なのかは深く聞かないという気遣いも出来る男だ。
彼のような気の置けない友を得ることが出来たのは、シゲルの人生において数少ない幸運だったと言えよう。
「何をと言われたら剣の修行だな」
「この山で修行って。相手は天狗とでも言うつもりか?」
聞かれたので素直に答えたのだが、ゲンは思わずと言ったように噴き出して尋ねた。彼の言葉にシゲルは手を顎に当ててしばらく考え込むとゆっくりと口を開いた。
「そうだな」
彼としてはただおどけて言っただけだったのだろう。
しかし、言われてみればあの青年が亡き英雄に剣を教えたという天狗でもおかしくはないと思えてきた。青年と初めて会った場所が英雄と天狗が出会ったという不動堂の近くだっただけに余計にそう思えてならない。
「冗談で言ったんだが。え、本当なのか」
「あと鵺と」
「…お前でも冗談いうんだな」
シゲルとしてはそんなつもりはなかったのだが、ゲンは冗談と受け取ったようだ。あの青年が天狗だという確証がないというのもあり、シゲルはあえて訂正しなかった。
「それより、ゲンは何でこんなところにいるんだ。サボりか」
「お前と一緒にすんな。ここらで用事があって工房に帰る途中だ」
工房とシゲルの家が同じ方向にあるということもあり、途中まで一緒に行くことになった。どちらも口を開くことなくしばらく歩いているとゲンはふと思い出したように彼に尋ねた。
「確か、ナデシコさんの家ってここから近かったよな。行きしなに寄るか?
って、何でそんな顔してんだよ。変なこと言ったか、俺」
ゲンとしては何気なく言っただけだったのだが、それを聞かれた彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。彼は口数が少ないのもあって表情がないと言われることもあるが、心を許した者にだけはこのように素直に感情を表に出すのだ。
「許嫁といってもただの口約束なだけだ。
そもそも、あれは私を好いていない。私もいつ寝首を掻くのかわからない相手となど御免だ」
「寝首って。そんなこと企むような子には見えないけどな」
嫌う父親が決めた相手だから拒絶するというような子供じみたものではなく、彼の中に何か明確な理由があるようだ。
「あの人。
…いや、兄がいるからあれは大人しいだけだ」
苦しそうに兄のことを言う彼を見てゲンはばつが悪くなり、天を仰いだ。
シゲルとミノルは互いを嫌い合っているわけではない。むしろ、仲良くしたいとすら思っているのだが、ミノルの弟に対する異常なまでの劣等感、そしてそれがわかっていていながらどうすることもできないシゲルの戸惑いが前に進めなくしているのだ。
「…シゲ、このまま俺ん家の工房に来るか」
「ああ。悪いな」
ゲンがしてやれるのはこうして彼の逃げ場所を作ることだけだ。
それだけしか出来ないとゲンは言うが、その心遣いだけでもシゲルは十分救われている。
二人で並んで工房までの道を歩いていると山であった出来事を聞かせろというゲンの希望に応え、シゲルは話し始めた。
「天狗も鵺もどちらも強くてな、一度も勝てなかった」
鵺は雷獣というもう一つの名に相応しい速さに翻弄されて一太刀も当てることが出来なかった。天狗の方は剣を振るもこちらの攻撃は全て受け止められ、軽くあしらわれた。
剣を学び始めた時でもそのように扱われたことはなかったので色々と新鮮だった。
「シゲでも勝てないって。そんなのがゴロゴロいんのか。ヤバいな、テング山」
「鬼女は簡単に倒せただけに余計悔しいな」
念のためと家から適当な刀を持ってきたのだが、まさか本当に使うとは思わなかった。腰に差した刀を見ているとゲンが眉間にシワを寄せて立ち止まっていることに気が付いた。
「どうした、ゲン」
シゲルが問いかけると彼は黙ったまま手を差し出して来た。
おそらく、その刀を見せろと言っているのだろう。シゲルは何も疑問に思わず、腰に携えたそれを彼に渡した。
受け取ると鞘から抜いて刃をまじまじと見つめ、彼はため息を吐いた。
「お前、これでよく斬れたな。弘法筆を選ばずっていうけど、いくら強くても持ってるのがなまくらじゃあ、どうしようもないだろ」
シゲルには刀の良し悪しはわからないが、まだ見習いとはいえ刀鍛冶であるゲンには一目見ただけで十分だったようだ。手にした刀をシゲルに返しながらゲンは屈託のない笑顔を見せる。
「そのうち、俺がスゲー刀、お前のために打ってやるよ」
「…期待しないでおく」
「言ったな」
ゲンに肘で小突かれながらシゲルはあの青年の言っていたことを思い出し、呟く。
「外の世界か。考えたこともなかったな」
これはアッシュとシゲルにとって互いの人生を変えるほどの出会いだったのだが、そんなことを彼らは知るはずもなかった。




