216 可愛い欠伸
驚いて彼女の方を見ると純粋な笑顔をアッシュに向けていた。突然の申し出に戸惑い、何も答えられずにいるとようやくアッシュから目線を外したミノルが女性を優しく窘めた。
「ナデシコ、急に言われたら誰でも困ってしまうよ」
「でも、ハヅキを見つけてここまで送ってくれたのに何もしないでこのまま帰すなんて」
夫に言われても素直に頷けないのかナデシコは頬に手を当てて小首を傾げる。おそらく、ここでアッシュたちが泊まると言うまで彼女は納得しないだろう。
確かに、シゲルが幼少のころを過ごしたという場所に興味はあるが、泊まるとなるとミノルと話すことになる。いずれ『イザナミ』のことなどを聞くために訪れようと思っていたが、正直なところまだ覚悟が出来ていない。
「どうしてもダメかしら」
諦めきれないというように両手を胸の前に合わせながらナデシコは懇願する。
「すみません。予定が詰まっていまして」
そうだっけと言いたげなヒルデに目配せして話を合わせてくれるように頼む。本当は特にないのだが、心を整理する時間が少しだけ欲しい。
「どこに行く予定なのかな」
ミノルの質問にアッシュは思考を巡らせたが、いい考えは浮かばなかった。表情には出ていないが彼が焦っていることがわかったヒルデが代わりに答える。
「僕たちこの国に来たの初めてだから色々行ってみようかなって」
「そうなんです。暗部山にある寺や神社とか訪れてみたいと思っていまして」
水神が祀られているという神社はまだ見ていないので行ってみたいと思っているので嘘ではない。
そう思いつつも若干の罪悪感にアッシュが胸を痛めているとナデシコが疑問を口にした。
「そこの寺というと虎が狛犬のところかしら」
「なら朝早くに行くのがいいかもね。その時間帯なら人もあまり来ないだろうし」
「ありがとうございます。明日行ってみますね」
アッシュたちが行った時にも人はいたが、もっと早い時間だと人が多かったのかもしれない。それはそれで人の生活が感じられて楽しいとは思う。
しかし、朝の誰もいない静かな山道を歩くというのもいいかもしれない。
新たな光景が見られるかもしれないと彼が期待しながら考えていた時、ナデシコが弾んだ声を上げた。
「あら、なら余計に家に泊って行ってくださいな。明日、ここから山に行けばいいじゃない。ね?」
「あ、いえ」
予定があると言えば引いてくれるかと思ったのだが、ナデシコはどうしてもアッシュたちに泊って欲しいようだ。微笑みながら善意で言っている彼女にどう言えば納得してくれるのだろうかと再び返答に困っているとミノルが助け舟を出してくれた。
「ナデシコ、今も探してくれている僕の教え子たちにハヅキの無事を知らせないといけないし、何より今から準備しても君が満足するようなもてなしはできないと思うよ」
「…それはそうだけど」
ミノルの言葉に彼女は揺れ動いているようだ。もう一押しだと思った時、可愛らしい欠伸が耳に入って来た。皆に聞こえてしまったのが恥ずかしかったのかハヅキは顔を真っ赤にしてうつむいている。
アッシュに背負われていた時に眠っていたとはいえ小さな体であの山道を登ったのだ。それぐらいで体力が回復するはずがない。
それでなくとも、夜も遅いので子供では起きていることも困難だろう。
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