209 鵺
声が聞こえたのか、女を倒した彼は少しうつむいていた顔を上げてアッシュを見る。
「…いや、違う」
シゲルだと一瞬思ってしまったが、よく見ると記憶の中の彼よりも随分若いことに気が付いた。見た目からして、おそらく十代前半ぐらいだ。シゲルはアッシュよりも年上なので目の前の少年が彼であるはずがない。
だが、本当によく似ている。若い頃の彼だと言われたら信じてしまうほどに。
少年も驚いた顔をしながらアッシュと同じようにじっと見ている。そして、彼から目を離さずに思わずといった風に口を開いた。
「天狗?」
「え?」
聞き間違いでなければ彼は今、アッシュのことを天狗と言ったのか。
正体不明の少年を前にした混乱から呆然と立ち尽くしているとまだ刃がむき出しだった刀を納めて彼は謝った。
「失礼。外から来た人でしたか」
「あ、はい」
何とか返事をしてアッシュは視線を斬られた女の方へ向ける。
すると分かれた体から黒い煙を上げて消えていく所だった。その姿に戸惑いながらも、やはり人ではなかったのかと思いながら見ていると少年が彼女に手を合わせた。
「彼女は怨念などの負の感情に囚われ、鬼となった者です。昔、毘沙門天様によって倒されたと聞いたのですが、まだ現世を彷徨っているようですね。
憐れことです」
「毘沙門天」
確かゲンが寺に祀られていると言っていた神の名前がそうだったはずだ。
少年が言っていることが本当ならば、ここはアッシュの知らないどこかではなくテング山なのだろうか。
アッシュが思わず口に出した言葉を疑問と受け取った彼は丁寧に説明した。
「この山に建てられた寺に祀られている戦いを司る神の名前です。
先ほどの鬼となった女に襲われていた偉い僧が毘沙門天様に助けられたことから出来たのだそうです。
ちなみに寺などを守るのは本来狛犬なのですが、その僧が毘沙門天様に助けられたのが寅の年、月、日、刻であったことから虎となったと聞いています」
狛犬が虎だと聞いてここがテング山なのだと確信することができた。ホッと安堵のため息を吐くとあの歪な生き物の姿が不意にアッシュの頭を過ぎった。
「虎と言えば奇妙な生き物を見かけました」
シゲルに似たこの少年に会った衝撃で忘れていたが、自分はそれを追いかけてここまで来たのだとようやく思い出した。
「奇妙な?」
アッシュの言葉を繰り返すと意味がわからないというように彼は首を傾げている。大人びた口調をしているが年相応の幼い仕草に安心しつつ、アッシュはここに来るまでに見たあの生き物の特徴などを伝えた。それを聞き、しばらく考えた後、彼は静かに口を開いた。
「その特徴は間違いなく鵺という妖怪でしょう。聞いたことのない音とはおそらく鵺の声ですね」
「いえ、あれはとても鳴き声とは思えませんでしたが」
動物の鳴き声に聞こえなかったからこそ、アッシュはあの音は何だと思い、困惑したのだ。彼を疑っているわけではないが、どうしても信じられない。
「昔の偉い方も生き物の鳴き声とは思えず、頻繁に聞こえる不気味な音に悩まされてついには病になったと聞きます」
正体がわからないあの音を聞き続ければ、誰でも病気になってしまうだろうなと実際に鳴き声を聞いたアッシュは納得してしまった。
「ですが、それが私の知っている個体だとすれば危険はありません」
「…そうなんですか」
奇妙な見た目だから邪悪な存在なのだというつもりはないが、何故彼はこのようにハッキリと断言できるのかと思わず歯切れの悪い返事をしてしまう。自分が言った答えにアッシュが納得していないことを察した彼はわかりやすく答える。
「時々、稽古に付き合ってもらっているので」
「そう、ですか」
恐ろしいと言われかねない姿に反してあの生き物は意外と付き合いがいいということなのだろうか。
予想外の少年の言葉が理解できずにいると少年は持っていた木刀をアッシュの目の前に差し出した。
「相当な手練れだとお見受けします。一度、私と手合わせしていただけないでしょうか」




