196 時は止まったまま
気が済むまで笑うと彼は呼吸を整え、涙を拭うと手に持っていた扇で屋敷の一角を差す。
「よかったら、そこの縁側で座って見ていきはりませんか」
扇で示す場所は部屋と庭の間に出来た廊下のようなところだ。そこには、まるでアッシュたちが来るのがわかっていたかのように座布団が二つ敷かれている。戸惑いながら彼の顔を見ると歓迎するように微笑んでいる。
彼がいうようにこの花が藤だとすればゲンが行くなと忠告していた屋敷とはここのことだったのだろう。
――魂が抜かれるって聞いたな
ゲンの言葉を思い出しながら彼を見ると背筋が寒くなるのに何故かよく知っているような気配を感じる。アッシュの中の本能は早く逃げろと今もなお囁く。
しばらく葛藤するが、もっとじっくりとこの美しい藤の花が見たいという欲の方が勝ち、頷いてしまった。
靴を履いたまま縁側に腰掛けるアッシュたちに対して青年は二人の後ろで胡坐を掻いている。それというのも靴を脱いだほうがいいのだろうかと戸惑っていると早々に下駄を脱ぎ捨て縁側に腰を下ろした彼が言ったのだ。
『悪いなぁ。ホンマは家に上げたいんやけど、しばらくしたら面倒なんが来るから、すぐ逃げられるように君たちは履いとった方がええよ』
意味がわからず首を傾げるが、彼は微笑んだままだ。答えるつもりがないことを悟り、彼の忠告通りに座り今にいたる。
後ろにいる彼をチラッと見ると先ほどまで感じていた何かは薄れている。ただ、着物がずれて足が見えているのに胸元を押さえて、はだけさせないようにしているのがやけに印象に残る。
裾を直すつもりはないようなので繊細そうな見た目に反して豪快な性格なのだろう。
なのに、襟だけは決して捲れないように注意をしている。そのちぐはぐさがどうも気になったのだ。とはいえ、じっと見ていると失礼だろうと首を横に振ってすぐに目の前の光景に視線を移す。
縁側からは花だけではなく、藤の木も見えた。幹はアッシュが両手を広げても届かないほどに太く、その先にある枝は四方に伸びて花を咲かせている。門の外からこっそりと覗いていた時とは違って優美さの中に植物の力強さを感じる。
「綺麗やろ、うちの柳、いや、藤の花は」
青年はいたずらそうに笑いながら答えを求めてきた。その言い方は先ほどアッシュがつい失礼なことを言ってしまったことへの当てつけだろうか。
「…すみませんでした」
「ええよ、別に。おもろかったし」
彼は気にした様子もなく、咲き誇る花を見ながら呟く。
「まあ、同じ春の花なら僕は梅の方が好きやねんけどなぁ。いつも咲いてたら風情も感じんし、何より飽きるわ」
そう言ってつまらなさそうにため息を吐く彼は本当にうんざりしているように見える。
オノコロノ国では四季によって自然がハッキリと移り変わるのだという。その時にしか見られないものを愛で、そして楽しむことでこの国の人々は時の流れを感じるのだ。
そういう意味では季節を問わずに咲き続けるというこの藤は時が止まっていると言えるかもしれない。
「わずかな間しか見せない姿が儚いからこそ心が動かされるということでしょうか」
「せやな。僕にとっては咲いてるんが日常過ぎて有難みものうなるわ」
藤から目を逸らしながら頬杖を突く彼を見て、ヒルデが問いかける。
「これって春の花なんだよね。何でずっと咲いてるの」
「さあ、何でやろなぁ」
微笑んでいるのに彼の顔を見ると本音を言っているように思えない。明らかに何かを知っていてわざと言わないのだ。彼の様子からもう一度聞いても答えることはないのだろう。ヒルデも同じように思ったのか諦めて別の疑問を口にする。
「好きじゃないし、興味もないんだよね。じゃあ、何で植えてあるの?」
手にした扇を開いて仰ぎながら考えるように別の場所を見ながら答えた。
「ん~? あの人が好きやったからとちゃう?」
今まで楽しそうな顔をしていたのにそう答える彼の目には何の感情も籠っていなかった。
普通に考えると彼の身内が植えたのだろう。その誰かが明確に思い浮かぶのに、その人のことを名前で呼ばず興味ない、いや、むしろ、どうでもいいと言うような反応を何故するのか。
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