155 狂い咲く紫の花
薄紫の垂れ下がる藤の花、侘び寂びを感じられる美しく整えられた庭、その奥に建つオノコロノ国独特の建築様式の家。それらが合わさることで厳かで幻想的な雰囲気を作り出し、見た者はみな感嘆のため息を吐く。
しかし、そこに誰がいるのかを知っている者は皆、近寄ろうとしない。
一度関われば、季節を問わず狂ったように咲き続けている花と屋敷に住む人物の姿が瞼に焼き付いて離れない。
そうなれば、四六時中その人のことだけしか考えられなくなり、やがて魂が抜けたかのようになってしまう。それがわかっているからこそ、誰もが恐れて屋敷に行くのを避けるのだ。
藤が見える縁側の障子が開き、真新しい井草の香りがする部屋の中にかすかに甘い花の匂いが漂う。その香りで起きたのか、肘置きにだらしなくもたれ掛かっていた人物の目がゆっくりと開かれる。
影が落ちるほど長い睫毛、日に焼けていないかのような白い肌、女性と見間違えるほどの美貌に彼が男だとわかっていても見とれてしまうだろう。
彼がわずかに動くと緩く縛った長い髪が揺れ、着物が少し捲れてすらりとした足があらわになる。暑いのか首筋からわずかに滴る汗さえも艶やかだ。
どこからか扇を取り出し優雅に仰ぐ。ただそれだけなのに一枚の絵のように美しい。
使用人も例外ではなく、魂が抜けたかのように見つめていると、この屋敷の藤を愛した女性の姿が重なった。首を振り、耳を塞ぎ、目を閉じても目の前の彼と瓜二つの女の姿が消えてくれない。
彼女はもうこの世にいないのに、彼を見ているとまるであの人が生きているようにしか見えない。混乱し、頭を抱えてうずくまっていると声を掛けられた。
「おかしいなぁ。畳は張り替えたばっかりやから、そないに掃除することないやんな」
麗しい容姿に似合う美声だが、男性特有の低く、雅な口調に目の前にいる人物は男なのだと改めて思うと少し落ち着いてきた。
しかし、今度は得体のしれない恐怖に動くことが出来ない。
彼は使用人が掃除をするためにここに来たのではないことを知っている。
知っていてわざと聞こえるようにいったのだ。目的を果たそうとせず、いつまでも畳に這いつくばっている自分にお前は何をしに来たのだと遠回しに言ったのだ。
使用人が反論も出来ず、ただ唇を震わせていると大きなため息が聞こえた。
「君、出てってええよ。」
労わるような優しい声におずおずと顔を上げると、扇を閉じて微笑みかけられた。
だが、笑っているのに背筋が凍るような恐ろしいほど美しく、冷たい彼の瞳に思わず息を呑んだ。その目は自分を邪魔だとハッキリと言っている。そう理解すると震えが止まらなくなった。
「で、ですが」
使用人は彼の目の前に対峙するように座っている男を横目で見る。
最低限の仕事をする以外は使用人ですらこの屋敷には誰も近寄ろうとしないのだが、例外はある。それが、彼に会いに来た人々の世話をする時だ。使用人は客である男をもてなすをするためにここに来たのだ。
彼に言われたからと言って仕事を放棄するなどしていいものかと戸惑う。
「ええやんなぁ」
困惑する使用人のことなど気にせず、彼は屋敷を訪れた客人だけを見て微笑みながら問いかける。意志を聞かれた客人である青年は使用人の方を向いて深く頷いた。
それを見た使用人は急いで立ち上がると頭を下げ、壁などに体をぶつけながら部屋から去る。
あのままあそこにいれば、狂ってしまう。
何年も経つのに今だ亡くなった前妻が忘れられず、執着し続ける自分の主であるヒイラギ家の当主のように。
足をもつれさせながら屋敷を飛び出す使用人の姿を藤の花がいつまでも見つめていた。
使用人が出て行ったのを確認すると彼は扇を開き、口元を隠しながら自分の後ろに控えていた従者のような男に話しかける。
「やっぱり、本邸の使用人はあかんなぁ。
ツグミ、代わりに茶ぁでも淹れたって」
「…側を離れることになりますが」
感情が読めない目で答えるツグミに彼は微笑む。その手の趣味がない同性でも見惚れてしまいそうな笑みを向けられてもツグミは表情を崩すことはない。
「かまへんよ」
彼は扇を閉じてそのまま廊下に繋がる引き戸を差す。いいから早く行けと暗に言っているのだ。そんな主の態度にツグミはため息を吐くと二人に礼をして先ほどの使用人とは違い音も立てず、静かに部屋から出て行った。
ツグミが居なくなったがどちらも口を開こうとせず、部屋は静まり返っていた。客人は彼に来るように言われただけだ。こちらから聞き出すということはせず、彼の方から話し出すのを待つ。
姿勢を崩さず、背筋を伸ばす客人に対し、呼び出した当の本人はというと気だるげに外の藤を見ている。脱力した体勢をしているうえに素足が見えることでだらしない印象を受けるも、胸元ははだけさせずにキッチリと着ている。その対照的で蠱惑な雰囲気に目がくらむ者もいるだろう。
…客人である青年には関係のないことだが。
来いというので時間を作ってここを訪れたのに黙ったまま話そうとしない彼に苛立っていると、ようやく口を開いた。
「――」
病弱な彼に代わって何か面倒な用事を言いつけられるのではないかと思っていたのだが、予想と違うあまりに突拍子もない言葉に目を見開いた。そんな男の表情を見た彼は目を細めて口角を上げる。誰もが見とれる麗しい笑顔で恐ろしいことをさも楽しそうに話すユカリが理解できず、青年はただ唖然とするほかなかった。
お待たせいたしました。今日から第3部開始です。
12時にもう一話投稿するのでよろしくお願いします。




