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おとぎ話異聞

絆を超えて ~金の斧、銀の斧異聞~

作者: 曲尾 仁庵

 とある森にある泉のほとりに、一人の青年の姿がある。その手には鉄の斧を持ち、鏡面のように凪いだ水面をじっと見つめていた。風はなく、鳥さえも息を潜めているのか、痛いほどの無音が周囲を覆っている。青年はじっと斧の刃を見つめ、意を決したようにそれを泉の中に放った。重苦しい水音を立てて斧が沈み、波紋が泉をざわつかせた。青年の表情が緊張に強張る。やがて泉の中央がぶくぶくと泡立ち、『それ』は水上に姿を現した。


「あなたが落としたのは金の斧ですか? 銀の斧ですか? それとも鉄の斧ですか?」


 水に濡れてなお美しい金の髪が陽光をキラキラと反射する。三本の斧を抱えて青年に静かに問うのは、女神のごとき神々しい光を纏う一人の娘だった。青年は唇を舐め、軽く息を吸って答える。


「……鉄の斧」


 娘の顔にわずかな憐憫が浮かぶ。


「本当に、それでいいのか?」


 それは、自ら死の運命を手繰る愚かさを嘲笑う憐れみだった。


「自分で選んだなら言い訳はできない。負けたのは武器のせいだったと言えなくなる」


 青年は小さく首を横に振った。


「人の生を失ってまで得る力に意味はない。俺は人のまま戦い、人のまま、勝つ」

「絵空事だ」


 娘は鉄の斧を青年に向かって放った。


「人の身では届かぬ頂がある」


 青年は斧を拾い、挑むようにその刃を娘に突きつけた。


「人の可能性は無限。俺はそれを証明するためにここに来た」


 娘は右手に金の斧を、左手に銀の斧を持ち、侮るように口の端を上げる。


「ならば実力で示せ。鉄と血のみが我らの言葉よ」


 娘の目が殺気を帯び、死の気配が泉を渡る。青年は己を叱咤するように叫んだ。


「いくぞ! 我が師よ!」

「来い、愚かな我が弟子よ!」


 森の静寂は破られ、刃の咬み合う激しい音が響き渡った。




 かつてこの泉のほとりには小さな祠があり、祠には一対の斧が祀られていた。金色に輝く太陽の斧と白銀の光を湛えた月の斧。それを手にした者は無尽の力を得られるというおとぎ話は人々の間でとうに忘れ去られ、泉は静かな眠りの中にあった。しかし力を求める一人の女が忘れ去られたはずの伝説を呼び覚まし、祠を破って封じられた斧を手にした。斧は女の望みの通りに力を与え、女は戦場において無敵の存在となった。たった一人で千の兵を殲滅する女は敵味方を問わず怖れられ、やがて彼女は仲間の裏切りによって泉へと封じられる。泉から離れることができぬまま、斧の力によって老いることも死ぬこともない女は、時折泉に立ち寄る旅人を襲ってはその血を啜る魔物となり果てていた。




 右肩を狙う金の斧の一撃を打ち払う。前に踏み込もうとする青年を左下からの銀の斬撃が阻んだ。切り上げた勢いで回転し勢いを増し、両腕を揃えて放つ金銀の刃が振り下ろされる。青年はたまらず後ろに下がった。


「全体を俯瞰しろと教えたはずだ。左右の斧の動きを読み切らねばお前に勝機はないぞ」


 説教をする口調はかつて教えを受けていたときと変わらない。青年の胸がじくと痛んだ。変わったのは師の容姿――かつて三十を超えていたはずの師は今、斧の魔力を得て青年より年下に見える。彼女は身体能力のピークである年齢をずっと保ち続けているのだ。

 青年の額にじっとりと汗がにじむ。目の前にいる娘は、かつての師の技の熟練はそのままに身体能力を飛躍的に増し、彼の前に立ちはだかっている。訓練の時でさえ、青年は師に一度も勝ったことがなかった。青年は斧を握る手に力を込める。焦りを見透かせるように娘は笑った。


「大言を吐いた結果がこの程度か? これで限界というのなら、終わらせてもらうぞ」


 金銀の斧がギラリと鈍い光を放つ。青年は奥歯を噛み締め、娘をにらんだ。




 世は大乱の時代、弱き者は踏みにじられ、声を上げることもできずに消えていく。国同士が互いに正義を鳴らし、美名の許で無意味な死が積み上げられていく。そんな世界を女は生きてきた。強くなければ生きていけない。強さがなければ明日には骸になるだけ。戦いに明け暮れる日々の中、女は一人の少年と出会う。少年はまっすぐな瞳で女を見つめた。


「どうか俺を、弟子にしてください!」


――強くなければ、何も守れない。


 それは女の心に決意と恐怖が宿った瞬間だった。




 迫りくる暴風のような双斧の斬撃に、青年は防戦一方に追い込まれている。致命傷こそないが身体は無数の裂傷に覆われ、もはや傷の無い場所を探すほうが難しい。娘にはかすり傷の一つもなく、戦いの趨勢は明らかであるようだった。


――ガギンッ!!


 青年が放った苦し紛れの一撃は双斧に簡単に防がれる。それでも青年は獣のごとくうなり声を上げ、何度も娘の持つ斧を打ち据えた。娘には何のダメージもない。青年だけに傷が増えていく。


「もう諦めよ。勝機がないことは分かっているはず」


 余裕が生んだ侮りを湛えて娘が青年を見る。青年は怒りを込めて吠えた。


「諦めるわけにはいかぬ!」


 もはや技も駆け引きもなく、青年は斧を叩きつける。それは疲労を増すばかりで有効打とはなりえぬ愚かな攻撃だった。簡単に双斧で受け止め、娘はため息を吐く。


「弟子の実力を突き付けられる師の気持ちも考えよ。お前の弱さは私の不徳ということになるではないか」


 師の愚痴を無視して青年は再び斧を叩きつける。不快そうに鼻にシワを寄せ、娘は受け止めた斧を力任せに押し返した。青年が抗えず後ろに下がる。娘は両腕を振りかぶった。


「終わりだ。せめて苦しまずに逝け」


 鋭い斬撃が光跡を描いて青年を襲う。運命に牙を剥き、青年は振り下ろされる刃を鉄の斧で迎え撃った。娘の顔に勝利の確信が宿る。不安定な体勢から繰り出された斬撃は彼女の斧を止める力を持たない――


――キィン


 場違いに澄んだ音を立て、斧が付け根から折れて宙を舞った。回転しながら後方に飛び、金と銀が地面に突き刺さる。振り下ろした体勢のまま娘は信じられぬと言うように動きを止めた。青年が荒く息を吐く。

 青年はずっと、戦いの初めからひたすらに娘の斬撃を斧で打ち払っていた。防戦を強いられながら、攻め手のきっかけを掴めぬように見せながら、彼女の持つ二つの斧を打ち据えていた。斧の同じ場所を、ずっと。青年は最初から、娘ではなく斧を砕くことだけを考えて戦っていたのだ。


「……あ、ああ――」


 娘の身体がカタカタと震え、瞳が収縮する。冷たい汗が吹き出し、娘は斧の柄を落として膝をついた。


「ダ、メだ……強く、なければ……」


 娘は自らの肩を抱く。


「負ければ、死ぬ……踏みにじられる……弱ければ――」


 怯えるようなかすれ声で娘は言った。


「――守れない――!」

「もういい!」


 青年は鉄の斧を捨て、娘を正面から抱きしめる。


「守らなくていい。強くなくていい! 貴女に守ってもらわねばならない弱い子供はもういない!」


 震えよ止まれと、青年は娘を抱きしめる腕に力を込めた。


「……独りで戦わないで。独りで背負わないで。貴女だけが『守りたい』と思ってるわけじゃない」


 初めて気づいた、というように、娘が大きく目を見開く。娘はためらいながら青年の背に腕を回した。娘の震えが、止まった。


「貴女が、大切だ」


 痛いほどの抱擁が青年の想いを伝える。娘の目から涙がこぼれた。




 砕かれた斧は溶けるように消え、泉は伝える者なき伝説と共に静寂を取り戻した。青年は彼に似合いの美しい娘を娶り、世の喧騒を離れて森深く、木こりとなって暮らしたという。仲睦まじい二人は末永く幸せに暮らしたというが、青年はしばしば親しい知人にこんな妻の愚痴を漏らしたという。


「ときどき彼女は師匠に戻ってしまって困る」


と。

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