古傷
「凛さん、この傷なに?」
隣で私の肩に寄りかかっている彼女は、私の左腕に指を這わせて聞いた。
「これは、猫に──、……いや、」
私はいつものように紛らわそうとして、彼女を見て、私のことを好いてくれている彼女に不誠実なことをしたくなくて、正直に言った。
「これは、自分でやったんだ」
アパートの一室。どこにでもあるような、なんでもない部屋のソファに座りながら、2人でビールを飲んでいた。彼女は5連勤終わりで、いつもより飲むペースが早かった。白い肌を赤らめながら、私の左肩に頭を乗せて、次第に声が甘くなっていった。彼女のセミロングの髪が私の鎖骨にかかってくすぐったかった。
「どうやったの?」
彼女は相変わらず左腕の傷を触っている。
「普通は、なんでそんなことをしたの?とか、聞くんじゃないのか」
「それは野暮かなって。あと、普通にどうやったのか気になって。結構深いでしょう、これとか」
左腕の甲側には、白く浮き上がった線が縦横無尽に伸びている。彼女が指をさしているのはその中でも一番目立つ傷だった。
「たぶん、普通はカッターとか使うんだろうけど、あの痛みはあんまり好きじゃなかったんだ。鋭利すぎて、深く切れてしまう」
私は、よく傷を付けた10代前半の頃を思い出して呟いた。思い出すまで忘れている、遠い過去の記憶だ。私が今の私になるまでの、奥底に仕舞われた、埃被った記憶だ。
「クリップ付きのボールペンあるだろう。あそこのクリップの部分をへし折る。すると、断面がぎざぎざになる。そして腕に這わせて、勢いよく引っ掻くんだ」
私は当時使っていた赤のボールペンのことを思い出しながら、彼女に言う。
「痛いの」
彼女が少しだけ心配そうな声を漏らす。
「一瞬だけだ。出血もそんなに出ない。外傷のような、野蛮な傷だよ」
よく見るような、カッターを構えて腕の腹部分に線を並べてつける彼女たちのものとは、少し違う。と、思う。分からないが。
「生きている実感が欲しかったんだ」
理由を聞かれた訳ではないのに、自然と口に出していた。あの頃は色々なものに耐えられず、私の許容できる範囲を容易に超え、それでも明日が来たので歩を進めなければならなかった。そんな中で、私はよく腕を切っていた。あの頃は私の周りを取り囲む色々なものに押しつぶされそうになっていたのだろうけど、今にして思えば、おそらく私は生きている実感を欲していたのだ。
彼女は理解したようなしていないような不思議な顔をした。やがて想像するのを諦めたように、
「もうしてないの?」
と私の顔を覗き込んだ。
「ああ。私の腕を見て泣いた人がいたんだ。翔香に出会うずっと前だ」
そういえば、彼も髪が長かった。彼女と同じくらいの長さだった。私は、高校生の頃に付き合いのあった部活の先輩のことを思い出していた。
「そうなんだ。ごめんね、私泣けなくて」
彼女が少し嫉妬するような、悲しそうな声を漏らす。
「君がそういう人間じゃないから、私は安心して君と会っている」
私は彼女の頭を抱き寄せた。私の胸の中で、彼女が心地良さそうに目を閉じた。彼女の温度と鼓動を感じながら、私も目を閉じる。
「明日はどこに行く?」
「どこでも良いよ。凛さんと一緒なら」
彼女が照明を一段階落とした。
冷凍庫の製氷器がからん、と音を鳴らす。