表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

断髪のエルゼ

作者:

※近親婚を想起させる部分があります。ご注意ください。

 世界のどこか、ある小さな小さな王国のお城に、王と妹姫が暮らしていた。

 森の王国と呼ばれるこの国を平和に治める若く美しい王が目下抱える問題は、妃の座のことだった。現在王には妹姫の他に家族がおらず、お世継ぎを作るため妃を娶らなければならなかった。

 この妃選びが難問で、王は名の挙がったどこの国の姫君も気に入ることがなかった。「南の島国の惣領姫はどうか」と誰かが言えば「あんなに遠い国と慌ててよしみを結んでも大した意味がない」、「北の雪国の女王はどうか」と誰かが言えば「笑わないと噂に名高い妃とは暮らしたくない」という風に。

 宮中の誰もが気を揉んでいたある時だった。

 ふと王は思った。

「他国の姫君と結婚するということは、敵にすらなりうる赤の他人を懐に招き入れるのと同じこと。対し、美しく賢いエルゼ姫は、私と同じ母から生まれ、共に育って互いに気心をよく知っている。王の伴侶には彼女が最もふさわしいのではないだろうか」


 王はこの思い付きを妙案だと考え、ただちに家臣たちへ「姫を新たな妃とする」と宣言した。

 しかしこれは誰にとっても到底受け入れられるものではなかった。古くからの家臣や相談役はむろんこれを止めようとして、「そのような罪を犯しては天罰で国が滅びてもおかしくはない」と必死になって言い聞かせた。

 エルゼ姫本人もきっぱり拒否し、兄を諫めようとした。

「私は兄様を夫と思うことはできません。そのようなことは野蛮人の行いです」

 しかし王はどうしても決めたことを曲げなかった。国で一番偉い王を止められる人はもう誰もいなかった。


 そこで姫は一計を案じ兄王に告げた。

「祝福される結婚というものには手続きを踏む必要があります。元より忌むべきものなれば、それは特別なものでなくてはなりません。どうしても私と結婚するというのなら、今から言う贈り物を半月以内に用意していただきます。着る者を災いから守ってくれるという、世にも珍しき星空のドレスを私にください。それから、北の山頂に住むというまぼろしの獣を倒して、大きな毛皮のコートを作ってください」

 姫が求めたのは伝承の中に現れる世にも珍しき品だった。今生きている人の中で見たことのある者は一人もいなかった。

 言わばこの注文はエルゼ姫流の断り文句だった。とてもじゃないがそんな物を見つけ出すことはできないだろう、これで兄は頭を冷やしてくれるかもしれない。エルゼ姫はそう考えたのだ。


 ところが兄王は王国に暮らす三人の賢女を呼び出し、姫の所望の品を作るよう命じた。

 賢女たちは星空のドレスがまじないをかけて月のない夜の空気をたっぷり吸わせた魔法の布で作られることを知っていた。まぼろしの獣がいくつもの山を越えた先のさらに山頂に住み、人前に姿を現したことがなく、常人の目からは見えないとすら言われるために幻と名が付くことも知っていた。

 彼女たちの神通力であればそれらを手に入れることも全く不可能ではなかったけれど、正しい心を持つ賢女たちは王のよこしまな考えを見抜き、これを拒否した。

 王はにべもない返事に怒ったが、いくら国王と言えど神通力を持つ賢女たちに無理強いすることはできない。

 しかし賢女たちを城から去らせた後も王が諦めることはなかった。

 まぼろしの獣の毛皮と星空のドレスという神の逸品、本物でなくとも十分珍しく、婚約の贈り物にふさわしい品になるはずだ。そう考えると腕利きの職人を大勢集め、姫の望むものと見た目には似せた品を作らせた。こうして宝石を砕いて星図を写し取るようにちりばめたドレスと、大熊の皮を継ぎ合わせて作った大きな大きな毛皮のコートができた。

 王はそれらをごまかすように金銀財宝を数多並べ、玉座の間を訪れた姫に差し出した。そして「婚礼は明日執り行おう」と宣言した。


 姫は青ざめた。伝説に名を刻まれるほどの品を本当に用意するなどありえない。これほど堂々と差し出してくるところを見ると、まさか本当に見つけ出してきたのか、それとも物の区別もつかぬほど兄は狂ってしまっているのか。

 もはや王を説得することはできないと悟ったエルゼ姫は、最後に一つ訊ねた。

「私は人が我を忘れて求めるほどに美しいわけではありません。もっと透けるような肌や鈴のような声をした娘はこの世にごまんといます。王は私の何をそんなに気に入ったのですか」

「妹であるがゆえに全てが愛しいが、特に挙げるならばその小麦色をした豊かな長い髪だろう。そのように鮮やかに輝き見事に波打つ美しい金髪は他に見たことがない」

 これを聞いたエルゼ姫は分かりましたとうなずいて部屋に下がった。


 さて、部屋に戻ったエルゼ姫はまず、愛用の机の引き出しから裁ちばさみを取り出し、その見事な金髪を肩のところで迷うことなくばっさりと切り落とした。

 そして便箋と羽ペンを手に取ると、さらさらとこう書きつけた。

「貴方の好きな小麦色の髪は餞別に差し上げます。どうぞこれをもってばかな考えはきっぱりお捨てになり、己の振舞いを今一度考え直してください。お元気で。妹のエルゼより」

 このまま兄の元にいるわけにはいかないと思ったエルゼ姫は城を出ていくことにしたのだった。妹だからといって言うことをきかなければならないわけはないし、妹だからこそ従ってはならない約束だった。

 生まれ育った城は名残惜しいが、自分がいなければ兄は諦めて他のりっぱな妃を選ぶだろう。自分がいなくなっては無理に外堀を埋めることはできまいし、姫が出奔という騒動にまでなれば、兄王に逆らえない家臣たちもいよいよ真剣に諌めてくれるだろう。


 書き置きの上に束ねた髪を放り投げると、エルゼは一番飾り気のない麻の服に着替え、次に荷造りを始めた。

 どうしても置いて行きたくない両親の形見の品や道中役立つであろう方位磁針とナイフに、顔を隠すためのベール。兄王の贈り物からはかさばらない宝石などを路銀として拾い上げると、こまごまとした品を全て夜色のドレスで包んで一つにまとめた。

 それから姫は荷物を抱え、仲の良い召使いたちの手引きでこっそりと厨房に下りた。そこで待っていた召使いたちは姫に干し肉や豆、果物など食べられるものを差し出した。エルゼ姫は彼らの気遣いに心から礼を言って受け取った。

 暖炉のすすで髪と顔を汚し、大きな毛皮のコートで全身を頭からすっぽりと覆うと、家臣たちの手引きを受けて城から抜け出した。


 エルゼが城門を出ると、待ち構えていたかのように三人の賢女たちが現れた。

 その中の一人、北の賢女は言った。

「王が貴女に与えられた贈り物はどちらもよくできたまがいものです。しかし今の王に追求しても、それをお認めにならないでしょう」

 エルゼ姫は納得し、同時に兄は自分をだまそうとしたのだと知って落胆した。

 次にもう一人、東の賢女が言った。

「西へ向かいなさい。国を出れば道は開けるでしょう」

 西は城から一番近くにある国境だ。国境周りには森が広がっており、そこを抜ければ晴れの王国と呼ばれる隣国がある。

 最後に南の賢女が言った。

「姫様が無事にあちらの国にたどり着けるようまじないをかけましょう」

 彼女が杖を振ると、どこからともなく現れた光がエルゼ姫の身体と荷物をきらきらととりまいた。

「あなた方の厚意に感謝します」と礼を述べると、エルゼ姫は西へと駆けだした。


##


 エルゼ姫は、いや、もう姫ではなくなったただのエルゼは、お城から西に目がけてひた走った。城の裏手から西には森林が広がっており、その切れ目近くには隣国との国境がある。豊かだというその国に行けば、しばらく隠れて命をつなげるだろう。


 森に駆け込み、ひとまず追っ手がないことを確認すると、エルゼは安堵のため息を吐いた。

 それからエルゼは西へ向けて歩き続けた。木々の梢の間から射す太陽の光はやがて朱色へと移ろい、陽がすっかり落ち切るとやがて囁くような鳥の声や虫の音が夜の静けさを引き立てたが、それでもエルゼの足は止まらない。追っ手にも狼にも出くわさず済んだのは賢女たちのまじないのおかげだろうか。

 日が昇っては再び落ち、また夜明けの光に空が白み始めた頃、エルゼはやっと足を止めた。木立の向こうに森の切れ間が見えたからだ。

 知らぬ間に国境も越えていたようだ。深い安堵を覚えると同時に緊張が解けたのか、エルゼはふいに疲れに襲われた。

 そんな時、ちょうど手近な木の根本に大きな洞があるのを見つけた。中にはびっしりと苔が生していて上等な座椅子のように柔らかそうだった。

 獣と出くわさないこの森の中なら、下手に人里に下りてから寝場所を探すよりかえって安心かもしれない。一刻も早く腰を下ろしたかったエルゼは大きな毛皮に今一度体を包み直し、頭からつま先まですっぽりと覆うと、洞の中に背中を預け、間もなく眠りに落ちた。



 さてそれからまもなくして、一人の赤毛の青年が森に足を踏み入れた。軽装の青年は剣を佩き、弓矢を携え、荷台をつないだ馬を森の入り口に停めて、狩りの支度を整えていた。

 彼は晴れの王国の王子だった。自分の領地である国境沿いのこの土地に城を持ち、この森にお供を付けず訪れては狩りをするのが楽しみだった。


 王子は森に入ってすぐにいつもと様子が違うことに気が付いた。日頃はこのあたりの森の際まで遊び出てくる鹿や兎の気配がまるでしなかったのだ。まるで何かを警戒して遠巻きにするように。

 ひょっとするとこのあたりには普段姿を現さない大きな獣が徘徊しているのではないだろうか。王子はいくぶん警戒を強め、周囲をよく伺いながら足取りを進めた。

 そうするうちにますます太陽は高くなり、森の中にも明るい光が射しこんだ。おかげで王子は見慣れないものの存在に気付いた。ちょうど通りがかった木の洞の中から、こんもりと熊の毛がのぞいていたのだ。

 最初、王子は熊の子供かと思い、ぎょっとして剣の柄に手を掛けた。しかし熊の巣穴にしては浅いし、よくよく見るとそれは生きた獣の肌ではなく毛皮だったのだ。王子はいぶかりながら毛皮に顔を近づけた。


 ちょうどその時、エルゼは木漏れ日に気付いて目を覚ました。

 毛皮をずらして視線を上げると、そこは燃えるような目をした若々しい偉丈夫がいるではないか。エルゼは仰天した。

 王子は相手が頭から毛皮をすっぽりとかぶった異形であるのにも構わず、悲鳴を上げかけたエルゼを優しい声で宥めた。

「心配しなくていい。私はこの森の持ち主、この領地を任されている、晴れの王国の王子である」

 それを聞いてエルゼはますます慌てふためいた。国境を抜けて安心していたが、王子の私有地に侵入していたらしい。エルゼは座ったまま深く頭を下げた。

「勝手に立ち入ってしまい申し訳ございません、殿下。何卒(なにとぞ)この哀れな子供に寛大なお慈悲を」

「そうかしこまる必要はない。それよりもお前は何者だ? いったいどうして毛皮を被っている?」

 顔を上げ、こっそり毛皮のすき間から窺うと、精悍な顔つきをした王子は真摯な表情で答えを待っている。ひとまず話を聞いてもらえると分かってエルゼはほっとした。

「はい、私は狩人の子供でしたが、尊敬する両親を先日亡くしました。狩りを教わるにはまだ早く、形見に残されたのはわずかばかりの作法とこの毛皮のみ。身寄りも頼るあてもなく、どうすればよいかわからなくて森から森へ転々としていたのです」

 エルゼは機転を利かせてそう名乗った。姫だと言えば送り返されてしまうかもしれないし、子どもと強調したのは森に入ったことを悪気がないと信じてもらうためだった。本当のことを言えるほど目の前の若者を信頼できなかった。何しろエルゼはつい昨日血のつながった兄の裏切りを受けたばかりだったから。

 幸いにも一晩中歩き通し苔の中で眠ったエルゼの手足は薄汚れていて、言葉の真実味を増していた。王子はエルゼの話を信じて言った。

「自分はこれからこの土地の城に戻ろうと思う。城では今下働きが足りなくなっているから、よければ一緒に行ってみないか。立派な言葉遣いを身に着けているようだからきっと歓迎されるだろう」

「ぜひご一緒させてください」

 渡りに船の提案だった。

 エルゼは王子の馬が引く荷台に座らせてもらって、全身を毛皮で隠したまま王子の城へと向かった。



 さて、王子の城に連れてこられたエルゼは、王子直々の紹介により厨房の下働きとして雇われることになった。

 しかし、王子の予想に反して、狩人の子供を名乗る得体のしれない余所者に厨房の料理番たちは冷ややかだった。

「その毛むくじゃらの皮を脱ぎなさい」

 まず料理長がエルゼを叱った。けれどそればかりはできず、エルゼは形見の品だと説明し、頭からかぶった毛皮を固く閉じ合わせた。

「生まれつきの呪わしき見た目の事情から、人前でこの毛皮を脱ぐことができないのです」

 嘘ではなかった。

 そう言われては無理やりはぎとることもできず、料理番一同は弱って顔を見合わせた。

 仕方なく一人の料理番がエルゼに野菜の満載された籠と包丁を押し付けると、下処理をすべて終えるようぶっきらぼうに言いつけた。それ以上の説明はなかった。

 もっとも人手不足の厨房では優しく教えられる余裕のある者は誰もいないので、料理番たちのすげない対応も仕方のないことではあった。それに、毛むくじゃらの皮をかぶって顔も見せないような新入りにどうやって料理を教えたらよいのか、誰も分からなかったのだ。


 しかし元々ナイフを懐に城を飛び出すような果敢な姫であったので、不慣れながらもエルゼはこれらの仕事に取り組み、どうにか全てやり遂げた。

 エルゼが皮むきを終えた野菜の籠を差し出すと、料理番は皮のむき方が厚いなどぶつぶつ言いながらもそれを受け取った。するとすかさず他の料理番がこちらの手伝いをするように、次はこちらを、と、次々に雑用を任せた。

 鶏の羽むしりや薪運び、煤かきなど、姫には慣れないたいへんな仕事ばかりで、終わるころにはとっぷりと日が暮れていた。


 エルゼには他の召使いたちとは離れた小さな地下室を与えられた。取っ手の壊れた水桶や空の木箱といったがらくたが転がり、藁のベッドの他には一つの家具調度もない、ほとんど物置のような部屋だった。けれどもこれは身元を偽るエルゼにとってはむしろありがたいことだった。

 先行きの不安とひとまずの居場所を得た安堵、二つの感情を抱えてエルゼは眠った。


##


 エルゼが厨房の下働きになって何日かが過ぎた。


 さて、お城に舞踏会はつきもので、そんな時厨房はてんやわんやだ。

 エルゼは新入りの下っ端として厨房のあちらこちらから言いつけられる雑用のため、今日も必死で駆け回っていた。

 無我夢中で働くうちに陽は沈み、夜空には星が瞬き始めた。大広間でお客様たちが笑いさざめく声は階下の厨房にまで届いていたが、夜が更ける頃にはまばらになっていた。ちょうど同じころには料理番の仕事にもひと段落付き、くたびれた料理人たちはばらばらと部屋に引き上げていった。

 最後に残って鍋や窯の片付けを終えたエルゼは、がらんどうになった厨房で一人息をついた。そしてふと、賑わしい宴の声がまだ聞こえてくるのに耳を止めた。城の本館とつながる厨房の出入り口、上へと延びる短い石の階段の先から、招待客の歓談する優雅な声や格調高い楽団の演奏が聞こえてくる。

 エルゼはその喧騒を懐かしく思った。ほんの少し前まではエルゼも生まれ育った城で暮らしていた。そのころエルゼは清潔で上等なドレスを身に纏い、周りには召使いたちがかしづいていた。

 ひとたび思い出すとたまらなくなり、エルゼは自分の小さな地下室に降りた。そして毛皮を脱ぎ去って顔と身体をすっかり拭うと、がらくたの影に隠した荷物から例のドレスを取り出した。漆黒の絹地いっぱいに星々をちりばめた星空のドレスだ。もっともそれはまがい物であったのだが。

 エルゼが星空のドレスもといただの美しい夜色のドレスに袖を通すと、それはよく似合っていた。落ち着いた色のドレスはエルゼの物静かな面差しと輝く金の髪によく映えた。手首までぴったりと覆う袖と腰から足元までふわりと広がる布地には、細微に砕いた宝石が大小に輝いて星図を描いていた。

 見る者もなく、姿見がない地下室では自分でも確かめられなかったが、エルゼはそれがしっくりくることにほっとした。厨房の見習いになってしばらく経ち、切り傷や手荒れを作るのにもすっかり慣れたが、姫だったころの誇りをまったく忘れたわけではなかった。

 それと同時に、己を今の境遇に追い込んだ運命の発端を思い出し、苦い思いがこみ上げてくるのだった。


 複雑な思いに囚われたエルゼは、理性と葛藤の下にさまよいながら、引かれるように本館へと続く石段に足を掛けた。決して宴に紛れ込もうというつもりはなく、ただどうしようもなく懐かしい宮廷の空気を再び味わいたいという思いからであった。

 階段を上がり切ると使用人用の細く殺風景な廊下が左右に伸びている。左に進み、最初の角を右に、さらにそこから階段を上る。他の使用人と出くわさぬよう用心しながら、心はひたすら先に先に向かっていた。


 そしてついにエルゼは最後の扉をくぐった。

 そこは壁紙で豪華に彩られ、金の窓枠に囲まれた大きなガラス窓がいくつも並ぶ、宮廷の立派な廊下だった。照明はごく少なくて薄暗い。エルゼは窓のほど近くまで歩み出た。

 長い廊下の先には大扉が見える。その隙間からは夜のものとは思えぬ明るい光と、賑やかな笑い声が漏れていた。そこが宴の開かれている大広間だった。わずかに垣間見える光景を陶然と眺め、エルゼは廊下の半ほどに立ち尽くしたまましばし物思いに耽っていた。


「――そこのご婦人」

 エルゼの心臓がどきりと跳ねた。

 大広間の反対側からやってきたのは、あの日エルゼを城に連れて来た王子だった。今日はあの狩りの軽装ではなく白い礼服に身を包んでおり、赤毛の短髪は丁寧に整えられている。彼はエルゼを招待客の一人と思い、客を入れる予定のない廊下に彼女がいることを不思議に思って近づくのだった。

「宴の空気に酔われたか。ご加減がよろしくないのであれば部屋を用意させよう。こちらへ……」

 彼の言葉は途中で途切れた。

 王子はその見覚えのない貴婦人に目を奪われた。肩までの長さもない金の髪とその下に覗く白く細い首は、薄暗い廊下の中で自ら輝くかのように浮かび上がっていた。そしてその幻想的な佇まいとは裏腹に、緊張した顔つきに滲む意志は力強かった。森で出会った毛皮の子供と同一人物とはまったく気付かず、夢を見るようにその貴婦人に見惚れていた。


 一方のエルゼは見つかってしまったことに危機感を覚え、逃げ道を模索していた。

 幸いにも立ち尽くす王子には隙があった。エルゼは呆然とする王子の横をすり抜けざま、吐息だけで「申し訳ございません」と早口に囁いた。そして返答を待たず使用人用の通用口に飛び込むと、息つく間もなくさっと扉を閉めた。

 我に返った王子が振り返った時、すでに彼女の姿は影も形もなかった。王子からすると姫君は忽然と消えたようにしか思えなかった。

 一体どのような事情で彼女が廊下に一人でいたのか、王子は知るよしもない。

 しかし人目を忍ぶような振舞いからして何か特別な事情があったに違いない。そう結論付けた王子は、召使いに探させることをせず、ただあの貴婦人の姿形を胸に秘めては何度も思い出すのだった。


##


 宴の夜からしばらくたったが小麦色の髪に夜色のドレスの貴婦人の噂は経っていなかった。エルゼはそのことに大いに安堵した。招待客でない人物が城の中で目撃されたとなっては城の人々はいぶかる。噂が大きくなって隣国の城にまで届いたらと戦慄したが、そんなことは起こらなかった。



 さて、きびしい厨房の仕事にも慣れるようになった頃のある日の朝、エルゼは一人の料理番に呼びつけられた。彼は王子の召し上がる毎日のスープを作る役目を賜った栄誉ある料理人だった。

 スープ係は今日、上等の食材を買い付けるため助手を引き連れて朝から市場へ出かけていく用事があった。

 そこで王子の昼食に間に合わないからと言って、なんとエルゼを鍋の見張り役に抜擢したのだった。

「普段私のやっている通りにやりなさい」

 スープ係はそう言って行ってしまい、エルゼは困惑した。狩人の子供を名乗ってはいるけれど、実際のエルゼは鳥を撃ったことも火を熾したこともない王女だった。厨房の仕事一つ一つに慣れるのが精一杯で、料理の作り方を見て盗む余裕なんてありはしなかった。

 しかし王子の召し上がるものなのだからおざなりな真似をするわけにはいかない。

 出汁の肉や香味野菜がぐらぐらと煮える鍋の前で弱り果てながらも、エルゼはかつて自分のお城で食べたスープを思い出しながら鍋に味付けを加えていった。吊るしてある香草を一つ一つ嗅いでは確かめ、心当たりのあるものを細かく刻んでぱっと鍋の上に散らす。えんどう豆をたっぷり入れて、塩の塊を細かく削って溶かし入れる。

 そうしてエルゼはスープ係が戻ってくる前にすっかり料理を作り上げてしまった。


 さて、昼前に戻ってきたスープ係は鍋の中身を一目見ると驚いて眉を吊り上げた。

「言ったものと全然違うじゃないか。いつも何を見ていたんだ」

 実際のところ昼食の支度に間に合わないと彼が言ったのは建前だった。新入りの習熟度合いを確かめるための試験、ちょっとした意地悪だ。まさか狩人の子供に宮廷の料理の心得があるはずもなく、焦げつかないよう見張るのがせいぜいだと彼は思っていた。

 エルゼを叱りつけるスープ係だったが、試しに一口味見をするなり目を丸くした。これは王様に出してもちっとも恥ずかしくない出来栄えだと思った。予定とは異なっていたがこれには舌を巻く。

 一転して機嫌をよくしたスープ係はさっそく王子の元に食事を運んだ。

 運ばれてきたスープをひとさじ飲んだ王子もまた驚いた。

「いつもとは違う味だ。これは東の森の王国の味付けではないか?」

 違いを言い当てた王子に、スープ係は興奮して伝えた。

「厨房に新しく入った下働きに鍋の番を任せたところ、まったく驚いたこと、誰にも教わらずこちらの皿を作りだしたのです。その下働きとはまさしく貴方様が連れてこられた、あの狩人の子供の毛むくじゃらでございます」

 これを聞いた王子は面白がって、狩人の子供、エルゼをここに連れてくるように命じた。


 急に呼び出されたエルゼはうろたえながらもすぐに王子のいる部屋に向かった。

「おそれながら殿下。私はなにか粗相をいたしましたでしょうか」

 そう言って毛皮のままかしずくエルゼは、むくむくとした楕円形の毛の塊が身体を折りたたむようだった。部屋の中にいた召使いたちはその不思議な愛嬌がおかしくて笑いをこらえるのがやっとだった。

「とんでもない。私はお前の作った料理に賛辞を贈りたいのだ。お前が料理も巧みだとは知らなかったが、この城に連れ帰ってよかった」

「お褒めの言葉、ありがたくちょうだいいたします」

 王子はこの料理上手で礼儀正しい毛むくじゃらのことをさらに気に入った。そして今度からは自分の食事の時側仕えをするように命じた。

 召使いの中にはこんな得体のしれない毛むくじゃらが王子の給仕をするなんて、と反対する者もあった。けれど王子は自分の拾ってきた狩人の子供をみじんも疑っておらず、大丈夫だから、と、逆に周りを説得した。


 こうしてエルゼは新しく王子の給仕を任されるようになった。このことで厨房でもエルゼは一目置かれるようになった。

 エルゼは身に余る大役に慌てながらも、自分を毛むくじゃらの見た目で判断せず側に置こうという王子の堂々とした態度に奇妙な親しみを覚えた。

 それに彼は、舞踏会の夜に見たドレス姿のエルゼのことを騒ぎ立てたり誰かに言いふらしたりはしなかったのだ。エルゼは王子の人柄を好ましく思い、与えられた信頼に報いようとさらに一生懸命に仕事に励むのだった。



 さて、そのころのエルゼの故国、森の王国でのことだ。

 兄王は妹を失った悲しみから、玉座にいても上の空である日が続いていた。

 波打つ金の髪のエルゼ姫。彼女はどうしているだろう。

 両親を早くに失い、王にとって家族は妹一人だけだった。ずっと手元において自分の手で何不自由なく暮らさせてやりたいと思っていた。

 大勢の召使に囲まれて育った彼女は誰も連れずに城を出た。今頃きっと苦労していることだろう。王はその行方が知りたかった。


 家臣たちはその意気消沈した姿を見て憐れみながらも、エルゼ姫が逃げてくれて良かったと思っていた。妹を妃にするなどという馬鹿げた思い付きが上手くいくはずはない。姫も王も、ひいては国を巻き込んで不幸になるばかりだ。

 エルゼ姫本人が城を逃げ出したから、王が無理やり婚礼を挙げることはできない。彼女が目の前からいなくなったことで王も少しは冷静になるだろう。

 家臣たちも彼女の行方を案じつつ、できる限り長く身を隠していてほしいと願うのだった。


##


 エルゼが城の下働きになってから三回月が満ちては欠けた。

 その間でエルゼは厨房の仕事にもずいぶん慣れていた。みんなの雑用だけでなく料理や給仕も任せてもらえるようになり、料理番の面々からは愛情をもって「毛むくじゃら」とからかわれている。この気安い関係は遠巻きにされていた頃よりずっと居心地が良かった。

 そして城の噂に耳をすましても、隣国の王が金髪の娘を探しているという話は一度も聞こえてこなかった。

 忙しくしているこの頃では生まれた城を逃げ出した経緯を悲しく思い返すことも少なくなり、エルゼは心穏やかに過ごしていた。



 ある夜、晩餐の後片付けもすっかり終わり、誰もが寝静まった頃、エルゼは手荷物の中からベールと手拭い、それに夜色のドレスを持ち出して、厨房からこっそりと外へ抜け出した。

 向かうのは城の裏の小道を抜けた先にある小さな泉だ。追っ手がないことが分かっても素顔は隠したままのエルゼだったが、このところは人目につかないように出歩くこつを心得るようになっていた。そんな中で見つけたのがこの泉だ。木々に囲まれた泉の水は清らかで、また辺りにはひと気がなく、ひとときの憩いにうってつけだった。


 暗い夜だった。新月で道の定かでない中をエルゼは夜目を効かせて慎重に道を進んだ。

 ほどなくして目的地に辿りついた。泉も辺り一面も真夜中の暗闇にすっかり染まっていて、温い夜風が立てる波音ばかりが時折響く。

 エルゼはまずいつもの毛皮と煤けた服を全て脱ぎ去ると、全て泉のほとりで丹念に洗い、木の中の枝に吊るした。そうしたら次は裸で黒い水面に飛び込んで身体を洗った。髪と顔をすすぐと、厨房の仕事で汚れた肌は元の人形のようにきれいな肌に戻り、しっとり濡れた金の髪は鈍い輝きを放った。

 そして水から上がったエルゼは、あの夜色のドレスを着て髪と顔を覆う黒いベールをかぶった。そうするとその姿は夜闇に溶け込んで、ほとんど見えづらくなった。

 エルゼは夜の闇の中でしばし毛皮を脱ぎ捨て、清潔な服を着てさっぱりした気分を楽しんだ。澄んだ水面には梢の間から降り注ぐ星の瞬きが写し取られていて、岸辺に座っていると夜色のドレスと溶け合うようだった。


 夜の風景に見惚れていると、突然足音が聞こえて、エルゼは飛び上がりそうになった。

 小道の方を振り返ると、そこには毎日目にしている人の姿があった。息を荒くして呆然とした様子でその場に立っていたのは、この国の王子だった。

「あの夜一目見てからというもの、貴方の姿が忘れられず探していた。ここで――」

 エルゼはすばやく立ち上がって後ずさった。今にも迫ってきそうな勢いの王子だったが、その警戒した様子を見ると足をぴたりと止め、エルゼに詫びた。

「失礼した。怖がらせたいわけではないのだ。どうか私に話をさせてくれないか」

「…………」

 その真摯な謝罪と懇願を聞いて、エルゼは逃げるのを止めた。まだ完全に心を開いたわけではなかったが、ぎこちない距離を保ったまま、じっと王子の瞳を見つめて話を促す。

 王子はほっとしたように力を抜いて笑うと話し出した。

「あの後改めて夜会を開いたが、貴女の姿はなかった。さては夜空の月が人の姿を借りて舞い降りた精霊だったのではないかと子供じみた考えすら抱き、月の見えない夜にはつい城中を歩き回って面影を探していたのだ」

 あの宴の夜も今と同じように月のない、星だけがきらめく夜だった。

「城で一番高い、誰も寄り付かない塔に上って裏手を眺めていると、泉のあたりで何かが輝くのが見えた。初めは水面に城の灯りが反射しただけかと思ったが、木々の陰に確かに金の光沢がちらついていた」

 まさか、と思い、王子はおそるおそる塔を降りると、城から庭に出た。そして裏手に続く小道を一直線に泉目がけて来たのだという。

「近付くごとにあの夜目を奪われた金の光が鮮明になってきて、思わず駆けてきてしまった。貴女は何者なのか。どうか名前だけでも教えてくれないか」

 エルゼは困った。名乗りたくとも名乗れなかった。

 エルゼは狩人の子供として王子相手に口を聞いているから、声を聞かれればあの毛むくじゃらだと気づかれてしまうかもしれない。小麦色の髪の娘が森の王国の城で下働きをしている、その事実は身の安全のために隠しておかなければならなかった。

 ――それでも彼だけになら、あの狩人の子供であると名乗ってもよいのではないか。そう迷いもした。しかし自分が迷っているということにさらに戸惑い、答えは出なかった。もう心の中ではずいぶん王子のことを信頼するようになっていたのだ。


 口ごもるエルゼに王子は答えを迫らなかった。代わりに自分の小指から金の指輪を抜き取ると、エルゼの手を取って握らせた。目を丸くするエルゼに王子は熱心に乞う。

「三日後にこの城で晩餐会を行う。その席でどうかまたお会いしたい。私に応えてくれるのであれば、この指輪を付けて城を訪れてほしい」

 切迫した王子の懇願にも、エルゼはどう答えることもできなかった。

 これ以上返答をごまかし切ることができず、エルゼはたまらず元来た道とは逆の方向、林の中に駆け出した。王子は慌ててその後を追うが、夜闇と同じ色の衣服に身を包んで木陰に息を潜めたエルゼのことはすぐ見失ってしまった。王子が諦めて去った後、エルゼはこっそり戻って毛皮と古着を回収し、そそくさと勝手口に駆け込んだ。自分の地下室に駆け込み呼吸を整えてからも、なかなか胸の鼓動は落ち着いてくれなかった。



 翌日、エルゼはいつもの通り、厨房の料理の手伝いの後本館へ王子の給仕に行った。昨夜のことがあって心は落ち着かなかったが、顔を毛皮で隠し、いつも通りの毛むくじゃらを装って、何食わぬ風を装って給仕をした。

 王子はかたわらに控えた腹心の毛むくじゃらにこっそりと話しかけた。

「聞いてくれ、狩人の子よ。私は己の運命とも言うべき貴婦人と出会った。名も生まれも知らないが、たいそう美しい金の髪と瞳の輝きが魅力的な女性だ。私は彼女を明後日の晩餐会に招いた。彼女がもしも私の願い通り指輪を付けて訪れてくれたら、そこで婚姻の申し入れをしようと思う」

 エルゼは話の途中でそれが自分のことを言っているのだと気付くと、頭の中で何かが弾けたような衝撃を受けた。驚きの余り銀食器を取り落としそうになった。王子の話す運命の人とは、まさしくエルゼのことだった。

 思いがけない告白にエルゼの心臓は騒ぐ。それと同時に、心配で腹の中がざわつくような感じがした。

 結婚を受け入れるのなら、エルゼは自分の身元を明かさないわけにはいかない。隣国の姫であることを明かせば王族同士の結婚になるが、そうなったら兄である森の王国の王はエルゼの居場所を知り、駆け付けてきて帰還を迫るかもしれない。それはエルゼが何より恐れることだった。

 かといって毛むくじゃらの狩人の子供のエルゼではとても王子と釣り合わない。誰からも歓迎されるものでない結婚をさせるのは心が痛む。

 もしも毛むくじゃらが毛皮を抜いで自分がエルゼ姫だと明かしたら、王子は追っ手から守ってくれるだろうか。いや、それより先に、嘘を吐いていたエルゼのことを受け入れてくれるだろうか?

 エルゼは自分の小部屋に帰ってからもさんざん頭を悩ませた。しかし上手い解決法は見つからず、胸の苦しさに翻弄されるのだった。


##


 そうこうするうちに晩餐会の当日は訪れた。

 城の厨房は朝から大わらわだった。竈に掛けられた大鍋からは湯気が立ち、オーブンは絶えずごうごうと音を鳴らしている。料理番たちは各々の持ち場で腕を振るい大忙しだ。外の煙突からはもうもうと絶え間ない煙が上っていた。

 この日の晩餐会はそれは大掛かりなものだ。国の内外から招待された貴族たちがやってくる。その準備のため、厨房はもちろんのこと、掃除係も配膳係も上から下までひっくり返すような忙しさだった。

 エルゼもいつもの毛皮を着たまま、運ばれてくる野菜を次から次へと刻んで汗みずくになっていた。百人分ものごちそうを時間通りに拵えなければいけないので休む間はなかった。

 元々の事情に加えこんな忙しさだから、エルゼは「やはり晩餐会に出席するわけにはいかないだろう」と考えていた。

 それでも万が一後から気持ちが固まり、厨房から抜け出せるような余裕ができた時のために、毛皮の下にこっそり夜色のドレスを着こみ金の指輪を左手にはめていた。


 やがて厨房では目が回るような支度が終わり、晩餐会が始まるほんの少し前にやっと一息つくだけの余裕ができた。エルゼはその隙に、この日の晩餐会がどんなものか、外からこっそりと確かめることにした。

 毛皮を頭からしっかりとかぶり直し、城の裏手に出る通用口を抜け、外壁に沿ってこそこそと表に回り込む。正門が見える場所までたどり着くと、エルゼはちょうどよい藪の陰にしゃがみ込み、門をくぐる招待客の様子を窺おうとした。

 すると、舞踏会はエルゼの思っていたよりもはるかに大きなものであることが分かった。今日の晩餐会は前回にもましてたいへんな人出だった。何台もの馬車が入れかわり立ちかわりやって来て、ひっきりなしに客人たちがやって来る。

 エルゼはふと馬車の一台に目を止めてどきりとした。

 エルゼは王女の生まれなので、森の王国の貴族のことは教師に教わってよく知っていた。その中のある貴族の紋章のついた馬車が訪問客の中にあったのだ。その貴族とは国境沿いを治めていたので、この晴れの王国とも交流があった。

 エルゼは正門から踵を返し厨房に駆け込んだ。エルゼは社交的な姫ではなかったが、小さな国であったから貴族の顔を知っているし、貴族たちも姫の顔を知っている。晩餐会に自分が姿を現すわけにはいかなくなった。

 やはり出席するのはやめておこう。

 そう心に決め、息を切らして戻ってきたエルゼを、料理番の仲間たちが迎えた。みんなエルゼをせかす。

「王子様が上で待っていらっしゃるよ」

 エルゼはぎょっとしたが、指輪のことではなかった。王子は大勢のお客がやって来るこの日もこの毛むくじゃらに給仕をさせようというのだ。

 限られた人しかいない普段のお城での給仕ならともかく、外からのお客がやって来る宴でも給仕をしろと言われるのは予想外だった。気が進まなかったが、王子の命とあらばそうしないわけにはいかない。

 せかされたエルゼは毛皮を頭からしっかりとかぶり直し、すぐに城の本館へと上がった。



 王子は長卓の整えられた広間で早くに訪れた客人たちの相手をしていた。

 今日の王子には客をもてなす大切な役割がある。顔ではにこやかに笑って来賓一人一人に来てくれた礼を言いながらも、心の中では直接招待したたった一人の貴婦人のことにずっと思いをはせていた。

 着々と食事の支度が進められる広間にも、別に用意された舞踏室にも、かの小麦色の断髪は見えない。門番に訊ねても、あの金の指輪を召した姫君は訪れていないという。王子は密かに彼女の来訪を待ちわびた。

 しかし招待客の最後の一人がやって来てもかの貴婦人は現れなかった。


 晩餐会が始まり、いつものように給仕役として呼ばれたエルゼは、長卓の端の最も良い席に座る王子の隣におずおずと控えた。

 毛むくじゃらのお化けのようなエルゼを見て客人たちは初めどよめいた。

「この毛皮の子は異国の知恵を持つ、我が自慢の料理番だ」

 堂々とした王子の発言に客人たちもそういうものだと思い、興味深く眺めたり声をかけたりして、風変わりな召使いに目を楽しませた。

 こうして和やかな雰囲気で食事は進み、召使いたちは招待客たちの間をくるくると移動しながら給仕に励んでいた。

 ――この忙しさに加え、普段とは違って大勢客人が要る中での給仕にまごついていたエルゼは、大切なことを忘れていた。

 エルゼは王子の高杯に水を注ごうとして彼の前に手を差し伸べた。

 その時王子は、エルゼの左手の人差し指に、見覚えのある金の指輪がはまっているのを見た。エルゼは忙しさの余り指輪を抜き取ることを忘れていたのだ。

 王子はとっさにその手首をつかみ、エルゼを凝視した。

 慌てたエルゼは、毛皮のコートを押さえていた手をうっかり離してしまった。誰かがあっと声を上げた。重たい毛皮がさらさらの絹のドレスの上を滑り落ち、小麦色の髪が、夜色のドレスがこぼれ出る。

 王子は息を呑んで椅子から立ち上がった。王子とエルゼは声もなく見つめ合う。長卓の両側に並んだ招待客たちも、驚いて二人の様子を一心に見つめた。

 我に返ったエルゼはわなわなと震えると、くるりと長卓に背を向け、召使い用の廊下へと逃げ込んだ。


##


 エルゼは召使いの通路を抜け、勝手口を飛び出し、走って走って城の裏の泉まで逃げて来た。昼でも夜でも木々に囲まれた泉に人の気配はなかった。

 

 大勢の前で正体を明るみに出す事態になって、エルゼは動転していた。こうなってはもう城にいるわけにはいかないだろう。せっかく慣れた仕事や打ち解けた仲間、そして愛情を示してくれた王子と別れる事を考えると、胸が張り裂けるように苦しかった。

 けれどそんなエルゼを王子は追いかけて来た。エルゼは驚いてたずねた。

「なぜこちらにお出でになったのです」

「自らの運命と定めた人を捨て置くはずがない」

「ではなぜこの場所が分かったのですか」

「ここにいてほしいと思っただけだ。私が初めて気持ちを伝えた場所だから」

 王子は指輪のはまったエルゼの手を両手でぎゅっと握ると語り掛けた。

「貴女が森の狩人の生まれだろうと誰にも文句は言わせない。私の妃になってはくれないだろうか。それとも、それができない理由があるのだろうか」

 エルゼは自分を狩人の子供と思ってなおその意思を確認しようとする王子の実直さがたまらなく愛おしく思われた。同時に、それでも無言を貫こうとする自分が不実だと感じ、ついに口を開いた。

「私は本当は狩人の子ではないのです。名をエルゼ、森の王国の王女の生まれでございます。実の兄に妃になるよう迫られたため国を出奔して参りました。素性を隠すため狩人の子だと身分を偽り、王子も厨房の方々も私をそのように扱ってくださいました。そのご親切がありがたく、それに甘えていた己が恥ずかしくて合わせる顔がございません」

 エルゼは自分の事情をすっかり話した。

「身分を明かすわけにはいかず、かといって狩人の子供を名乗って生きるからには貴方のご好意にふさわしくないと思い、本日の晩餐会に参上するのを躊躇しておりました。ずっと隠していたこと、それから招待を反故にしたこと、本当に申し訳ございません」

 エルゼの健気な告白に胸を打たれた王子は再度懇願した。

「話を聞いてますます貴女を兄君の元へ返してはならないと思わされた。私を信じてくれるならば側で守らせてほしい。改めて、エルゼ姫、私の妃になってくれるだろうか」

「……はい。お許しくださるのなら、ぜひ貴方の妃になりたく存じます」



 ――同じ頃、森の王国。晴れの王国の王子が主催した晩餐会に出席していたこの国の貴族たちは、次々に帰国してきていた。

 その中に喋り好きで有名な貴族が一人いた。彼女は晩餐会がいかに愉快なものであったかを報告するため王の城に上り、謁見の席で語った。

「大きな毛皮で顔からつま先まですっぽりと覆った召使いがおりましたの。遠目に見ているとどこかとぼけた見た目が可愛らしかったのですが、突然毛皮を脱ぎ落とし、驚いたことに若く美しい女性が現れたのです。きっと王子の考えた余興だったのではないかしら。……ええ、麦穂のように鮮やかな断髪の姫君でした。そうそう、もっと髪が長かったら、貴女の妹君に瓜二つだったかもしれません」

 初めはほとんど上の空で聞いていた王だったが、次第に話に聞き入り、話題の人物がエルゼ姫のことだと気付くと飛び上がった。そして慌ただしく側近たちを呼びつけると、隣国の王子に連絡を取るように言いつけるのだった。


##


 そして来たる日、晴れの王国の王子は城の謁見の間に隣国の王を迎えた。そこには王子に最もよく仕える側近や召使いが何人かいるばかりでエルゼ姫の姿は見えず、兄王は礼儀正しく振る舞いながらも密かに辺りに目を走らせていた。

 王は挨拶を終えるとすぐに来訪の理由を告げた。

「書簡でも伝えたが、私は行方知れずになった妹、小麦色の髪の娘がこちらにいたと聞き及び、彼女を連れ帰るためこちらへ参じた。是非彼女に会わせてもらいたい」

 今回の訪問の数日前、隣国の王から訪問を伝える書簡が届いていた。王子と側近たちは相談してこの席を設けたのだった。

 王の要請を予想していた王子は落ち着き払って答える。

「さて国王陛下。確かに私の城には貴方のおっしゃる『小麦色の髪の娘』がおりますが、彼女は狩人の遺児です。私がぜひにと望んで妃にするつもりでいます」

「いいや王子。それは狩人などではなく、我が妹エルゼ姫に違いない」

「なんと!」

 王子はわざとらしく大声を上げた。

「彼女が一国の姫君であるのなら、これは王族同士の結婚。身分の障害はなくなり、隣同士の我らが国の友誼を深めるものともなりましょう。まさしく誰もが祝福する婚姻!」

 まるでお披露目をするかのような高らかな宣言だった。

 これを聞いて兄王は取り乱す。これでは王子と妹姫の婚姻を後押しするようなものではないか。

 しかし王もうろたえてばかりではなく、己の知らぬ進展にむっとして言い返す。

「それはならぬ。私は妹を連れ帰るためやってきたのだ。第一よしんば言葉通り狩人の子供だったとて、貴殿の妃にふさわしくはないだろう」

「それは聞き捨てなりません。彼女が我が妃にふさわしくないのであれば、彼女は貴方の妹ではないのでしょう。であれば陛下に彼女を連れ帰る道理はありますまい」

 王が真っ向から威圧すれば、王子はすかさず言葉尻を取って切り返す。王の連れて来た側近たちは内心で隣国の王子に声援を送っていた。

 焦れた王は「とにかく当人に会わねば納得いかぬ」と言う。王子の側近たちに緊張が走る。


 その時、垂れ幕の間から一人の乙女が歩み出て来た。飾り気のない麻の衣を身に纏い波打つ金の髪を肩で切りそろえた彼女は、みすぼらしくはあるが、まごうことなき王の最愛の妹エルゼ姫だった。

 エルゼは王子の隣に寄り添うように立ち兄王と向き合った。その胸には件の夜色のドレスと大きな毛皮を掲げ持っている。

 王は再びその姿を見られたことに歓喜し、また勝ち誇った気持ちになって宣言した。

「私の贈ったまぼろしの獣の毛皮と星空のドレスを所持している。そして彼女の手放した美しき金髪の片割れを私は持っている。やはり間違いない、彼女こそが我が妹姫エルゼである」

 兄王が懐から掲げ見せたのはゆったりと波打つ長い小麦色の髪束。まさしく目の前の女性と同じ色の髪だった。

 エルゼ姫は落ち着き払って首を振った。

「我が兄によく似たお方。お恥ずかしながら、私が持っているのは本物とは似て非なるまがいもの。生憎ですが人違いでございましょう」

「ああ、そうだとも。しかしかまわない。それこそが私の贈ったものであるという証左である。私は優れた職人を幾人も集め、贅を凝らしてそれらを作らせたのだから」

「なるほど。では貴方の妹は、本物でなくともかまわないと言っていましたか?」

 王は口をつぐんだ。

 はらはらと事の成り行きを見守っていた王、王子それぞれの側近たちは、目を見開いて互いに顔を見合わせた。

()はいたずらに珍しくて美しいものを欲しがったのではなく、星空のドレスとまぼろしの獣の皮を贈るようにと願ったのです。偽物であったというのなら、その贈り物はなかったも同然でございます」

「しかし、この髪束はそなたのものであろう。これが私の元にあるということはだれの目にも動かぬ、実の兄妹であるという証拠だ」

 兄王は懐から例の髪束を取り出して食い下がった。

 しかしエルゼ姫はきっぱりと述べる。

「私は城を出ることを誓って髪を贈ったのです。貴方がその髪を受け取ったということこそが、貴方の決めた『約束』が無効であることの証です。いったいどちらが正当な約束事であるか、誰の目に見ても明らかであるかと存じます」

 兄弟の間にあったやりとりに立ち会わず、流れを読めずにいる人々の目にも、兄王が劣勢であることはよくわかった。

 ついに兄王は押し黙った。彼が連れて来た側近たちは一様にエルゼ姫を称賛の眼差しで見つめた。

「本日姿を現したのはこちらの品をお返しするためです。どうぞお帰りの際お持ちになってください」

「…………一度贈った品を取り上げようとは思わぬ。それは餞別とする。収めるがよい」

 諦めたような渋い声音で兄王はそう告げた。それを聞いて、王子は部屋いっぱいに通る明るい声で述べた。

「兄君の許しを得た。エルゼ姫を我が花嫁と定めることを、今ここに宣言する!」

 誰かが声を上げた。

「晴れの王国の新たな夫妻に栄光あれ!」

 栄光あれ、と、誰もが唱和した。それは城の廊下にまで響き渡り、そこにいた召使いたちもまたつられて栄光あれと高らかに唱えた。それはさらにバルコニーや庭に伝わり、やがて祝いの号砲となって城下にまで轟いた。

 こうなってはこの場にいる者は祝福するほかない。すっかり元の予定とは異なってしまった兄王は、釈然としないまま祝いに交じるのであった。



 それから間もなくして、晴れの王国の城で王子とエルゼ姫の婚礼が執り行われた。城の大臣から料理番まで、誰もがこの結婚を祝福した。

 やがて王子が王となり、姫が王妃となってからも、二人はお互いを思いやる夫婦として仲睦まじく暮らした。

 また、妃は今でも時々毛皮をかぶり、「毛むくじゃら」になって召使いたちと料理を楽しんでは、王子の好きなスープを城の人々に振る舞っているのだとか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/14 08:16 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ