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今日から補講が始まる。今朝は昨日と違い、ワカバが食卓にいてもそれほどの驚きはなかった。もう、諦めという境地としか言いようがない。ワカバにはどうしたって勝てる気がしないのだから。
ただ、いろ葉はとにかくワカバに言いつけて出て来た。絶対に約束してね、としっかりと。しかし、どうしてこんなにも信じられないのだろう。いやいや、当たり前だ。だってあんなにも信じられないことばかりしでかす子なんだもの。
ただ、いろ葉はいろ葉の回りの被害をこれ以上増やしてしまいたくないということが第一だった。
「いい? 留守番って分かる?」
ワカバは確かに頷いた。
「私は学校へ行かなくちゃならないから、外に出ないでね」
きょとんとしながらも、ワカバは確かに頷いた。
「帰って来たら、ちゃんと自転車の乗り方教えてあげるから」
もはや、餌付けとも言えるのかもしれない。何はともあれ、付き纏われるということを拒否するよりも、受け入れた方が得策だ、といろ葉は思ったのだ。それを強く思うようになった理由は、ワカバが放った意味の分からない言葉から。
ワカバ曰く。「入れてくれないから、ちょっといじったの」
いじったのは、両親の記憶。とりあえず、ぼんやりと知り合いだということにしておいたらしい。そして、関係性はいろ葉に任せる、らしい。任せられても、困る。
家はここにはないらしいから、どうせ、うちに泊まることになるんだろうし……。その前にワカバは探す気すらないだろうし、家を借りるための保証人とかもいない。いやいや、そもそもワカバはお金すら持っていない。あ、でも、使えそうにない金貨は見せてくれた。ワカバの住んでいた場所での硬貨らしい。ワカバの国では世界共通の価値があるものらしいが、きっとここでは使えない。おそらくいろ葉に拒否権はないのだろう。また誰彼かまわず、記憶をいじられても困る。
いろ葉は急ぎ足で教室へと向かっていた。ワカバとの会話のせいで電車に一本乗り遅れたのだ。そして、教室の扉を開ける時、ふと、振り返る。背後にはいない。よかった、付いて来ていないようだ。油断も隙もない。何と言っても、玄関を出たら、何故か先に門前で待っていたのだ。追い抜かれた記憶は全くないのに、ワカバは平然と言った。
「行ってらっしゃい」と。
あの、何にも恐れないような微笑みで。そして、お守りをくれた。青い石だった。
「どんな敵からもいろ葉を護ってくれる青い石」
ありがとう、と受け取ったいろ葉はそれをスカートのポケットに落とした。
教室の扉を開けると既に全員集まっていたようで、いろ葉は静かに席に着く。教室正面に掛かるシンプルな掛け時計を見れば、後二分ほどでチャイムが鳴る。教室の真ん中、三列目の四番席がいろ葉の座席だ。いろ葉はスポーツバックを抱き、手提げかばんとまとめて持ち、小さくなりながら通路を歩いた。どうしてこんなに緊張するのか、中学生のいろ葉なら、分からなかったかもしれない。友達とはお喋りに花を咲かせながら過ごすはずで、チャイムが鳴るまではその自由を謳歌しているはずなのに、誰も喋っていないこの状況がどれだけ異質なのかを。しかし、ここでは、特にこの時期にここにいる者にとっては、それが不自然ではないのだ。
木の机の中から、数学の教科書を取り出し、ノートと筆箱を学校指定の手提げカバンから取り出し、机に置く。本当はみんなのように参考書を読んでおくべき時間なのだ。それなのに、いろ葉は最優先で考えなければならないことがある。全く迷惑極まりない。
とにかく今晩、ワカバに話を聞かなければなるまい。一番の謎は「誰?」というようなものなのだが、おそらく、その答えはいろ葉には分からないものだろう。さっきの短い時間で、いろ葉はワカバがこの世界の人間ではないのだろう、ということを悟ってしまったのだ。
いや、冷蔵庫、電子レンジ、オーブントースター。スマートフォンにテレビ。彼女はどれも魔法みたいと嬉しがっていろ葉の説明を聴いていた。そして、自身のことは魔女だという。未開の地の人なら、呪い師というだろうし、単にそういう者に憧れている人なら、魔法少女とか言いそうだし。それに、彼女の言葉の端々に出て来る国名は、いろ葉の知っているものではない。
地方とはいえ、一応名門の進学校と言われる学校に通ういろ葉は、それなりにいろいろ勉強しているのだ。第一希望の国立大学にはまだD判定だから、……。この時期でD判定だから、あきらめなさいと担任には言われているが、ワカバの言う国がどこにもないことくらい分かる。
ワカバはワインスレー地方にあるディアトーラという国の時輪の森に住んでいたらしい。そこにはおそらく友だちの魔女、ラルーと一緒に暮していて、時々人間の町へと出かけることがあった、そうだ。そして、隣には、魔女を嫌うリディアスという国があって、でも、そこにもワカバの知り合いがいたそうだ。
今はいないけど……。その言葉を言うワカバは少し寂しそうだった。
しかし、そこでいろ葉はワカバの話を折った。話を折られても怒りもせず、ワカバは「ごめんなさい」と謝った。だから慌てていろ葉も謝った。
「ごめん、違うの。もう、学校に行かなくちゃならないの」
何にも分からなかったワカバなのに、学校と言う言葉は知っていたらしい。きっと、ワカバの住んでいた国にも学校はあったのだろう。
頭のおかしな人なのか、それとも、本当に異世界からとかいうやつか。そして、いろ葉は後者を取ったのだ。
一昨日前の出来事を考えれば、それしか思いたくない。いろ葉のいる日本において種も仕掛けもなく宙に浮き、人の心を読むなどという、正体不明な生き物が宇宙のどこぞやから侵入してきたとは思いたくなかった。
それに、何だか分からないが、今朝のワカバを見ていると、危険人物には変わりないが、怖い人とは思えなくなったのだ。どちらかと言えば、いろ葉が助けてあげなくちゃ、と思う程。
恐怖ではなく、心配によく似た感情だった。
チャイムが鳴り、教師が扉を開く。
「起立、礼」
その声でいろ葉の意識は完全に現実へと戻されていた。いろ葉の学校は礼儀を大切にする。だから、その声も大きく、はっきりしているものだった。頭を上げたいろ葉の視界には、半分以上空席の教室が映った。
今から始まる授業はC判定以下だった者への補習授業だった。要するに、半数以上の者が既にB以上。半数以上の者の二学期は二週間後の九月から始まる。
おそらく、ここにいない者達は、さらに弱点を補強するために予備校へ行き、家庭教師を呼び、……中には図書館で勉強している者もいるのだ。ここにいる者たちへ向けられる教師の目は、きっと、自己管理のできないあなた達には、学校が責任を持って管理してあげましょう、というようなものなのだ。
真ん中の席、三列目四番席。
これは、この中にいる者達に付けられた序列番号でもある。いろ葉はまだかろうじてこのクラス内での中間に位置する。