どうか夢でありますように
朝、開きっぱなしのカーテンから入ってくる光と共にうるさいスズメの鳴き声が、いろ葉の夢を遮った。何となくまだ夢の中にいたい。階下からお母さんの呼ぶ声が聞こえてくる。「いろ葉~っ。起きてるのっ」朦朧とするいろ葉は、布団の中でしばらく目を瞑ったままその声をやり過ごしていた。
いつもの毎日だ。夏休みだというのに、母は毎日ちゃんといろ葉を起こしてから、仕事に出掛けて行く。母は少し離れた場所、駅で言えば3つ先にあたる場所で事務をしている。確か、三ツ星運輸。さすが三つ星、母はフレックスタイムなのというが、ここの事務の出勤は多少ルーズでもなんとなくやっていける都合のいい就職先だったらしい。
でも、これはともすれば引きこもりになってしまいそうないろ葉のための言い訳だったのかもしれない。
父はもう出て行ったのだろう。中学の教師である父の出勤は早い。夜も部活や会議やらで、何となく疎遠である。最近は専ら朝の部活動だったが……。
そして、更にスマートフォンのアラームがいろ葉に打撃を与えた。
あぁ、もう。
そう思うも、昼近くまで眠ってしまえば、すぐに生活リズムなんて壊れてしまうこともいろ葉は、よく知っていた。これは、要するに弱点の克服なのだ。
行きたくない学校へ行くためのトレーニングでもある。何と言っても、明日から授業という名の補講が始まる。もし、朝寝坊してしまったら、遅刻してしまったら、きっといろ葉はもう学校へは行けなくなる。
ある意味これは最後の戦い。
枕元をまさぐりながら、スマートフォンを確認する。解除ボタンを押す。音が鳴りやむ。何となくベッドに腰をかけ、グーッと伸びをする。いつもの変わらない部屋を見ていると少し頭が冴えてきた。
あぁ、昨日は大変だったな。なんか変な人が現れて。その前もカツアゲにだって遭ってたし。お金なんて持ってないのに。
あ、そうだ。きっと厄日だったんだ。
いろ葉は考えていた。あのなんか変な人、宙に浮いていたよね、確か。
更に考えた。あのなんか変な人、かなりの危険人物だったよね……確か。
いろ葉の視線が、恐る恐る今は明るい陽を射し込ませている窓へと移動した。何も浮かんでいない窓がある。心臓辺りがぞわりと震えた。っていうか、二度と会いたくないのだけれど……。あれって人間だったのかな? お化けとか? なんか、名前言ってたような気がするのだけど、なんだっけ?
「もう、いろ葉。ワカバちゃんが待ってるのよ」
痺れを切らした母がノックもなしにいろ葉の部屋の扉を開けた。
「お母さんはもう行って来るから、ご飯は用意してあるから食べておきなさい。あと、ちゃんとワカバちゃんに謝るのよ」
寝ぼけた頭では整理できない言葉ばかりを発する母を、ぼんやりと見送ったいろ葉は、恐ろしいことを思い出した。あのなんか変な人の名前……。ワカバじゃなかったっけ?
重大なキーワードを思い出したいろ葉の思考は急加速に巡りはじめ、ショートした。
考えが一度ショートしたいろ葉は改めて考え直した。今何をしなければならないのか。そうだ、パジャマを着替えよう。あっ、歯も磨かなくちゃ。顔も洗って……。ご飯も食べて。しかし、思考はそこで止まる。
ご飯を食べに行くということは、待っているという『ワカバ』おそらくあのなんか変な人に出くわすということに他ならないのではないだろうか。しかし、いろ葉は思った。いろ葉の母のようにここに乗り込んでしまわれては、よくない、と。玄関の扉が閉まる音がした。
母が出勤したのだ。たった今、この家の中でいろ葉はあの危険人物と一緒に取り残されてしまったのだ。
朝の支度をつつがなく終えたいろ葉は恐る恐る階下へと続く木目調の階段に、その足を乗せた。そろりそろりと隠れるようにして、のぞき込んだダイニングには、テーブルを挟み、ワカバはにっこりと笑っていた。
一瞬目が合った。ワカバが微笑んでいる。いろ葉の口元は引きつった。行かざるを得ないのだ。いろ葉はとりあえず、見つかってしまったこそ泥のようにして、肩をすくめてワカバの前に座った。
いつもなら、おいしく頂く朝食が、ままごとのおもちゃのように見えて、全くいろ葉の食欲はそそられなかった。
ワカバは、そんないろ葉の怯えなどいざ知らず、いや、知っていたとしても、意味が分からず、首を傾げて「おはようございます」ともう一度、笑顔を見せてみた。
しかし、いろ葉は全くワカバに目を合わせてくれようとしない。やっぱりうまく笑えていないのだろうか。ワカバはまるで目の前のワカバが見えていないかのように黙々と朝食を摂るいろ葉を眺めていた。しかし、いくら眺めていても、いろ葉と視線が合うこともない。きっと、食べることに忙しいのだろう。仕方なく、ワカバはいろ葉の前に並べてある朝食を観察する。
白い四角いパンに、たまごを割って焼いただけの物、何かの葉っぱ、小さなトマト。オレンジジュース。これはワカバの前にも同じ物が置かれてあった。いろ葉の母親が用意してくれたのだ。いろ葉はワカバに気付いていないようなので、仕方なく、ワカバはそのジュースに口を付けることにした。
なんだろう。甘い。不思議に思ったワカバは、いろ葉の母の言葉を脳裏に浮かべた。彼女は「オレンジジュースでいい?」とワカバに尋ねた。記憶に間違いは無いはずだ。そして、再び考えた。あれ、オレンジってこんなに甘かったっけ? ミカンだよね? あれ?
「何これ?」
素っ頓狂な声を上げたワカバを見つめたいろ葉の視線は、音が鳴ると思っていなかったおもちゃが鳴った、と言うような驚きに近い。
「何って……オレンジジュースだけど……」
「甘いよ?」
当たり前じゃん。ジュースだよ。
そんな言葉を脳裏に浮かべたいろ葉はふと考え直した。もしかしたら、100%しか飲んだことのないような、いや、搾りたて限定しかでないようなオーガニックな家庭で育ったのかもしれない。ということは、いろ葉とは、全く別次元の人間なのかもと。
「それ、100%じゃないから……」
肩身を狭くすることもないのに、いろ葉は小さな声で呟く。
「100%じゃないの? どうやって作ったの? 何が入ってるの?」
「えっ? ちょっと待ってね」
鈴木いろ葉は真面目な子だった。だから、それを適当に答える気にはなれず、しかも、ワカバが何に感動しているのか、何を知らないのかも知らない状態だったため、冷蔵庫に入っているジュースのパックを取り出して、成分表を読み上げた。
「すごいっ。何だかよく分からないけど、なんだかすごいっ」
その驚きは、いろ葉の想像のさらに上を行くような、不思議な驚きだった。そして、いろ葉が辟易しているのにも構わず、ワカバの疑問が爆発していく。
えっと、その大きな白い扉の中は何? れいぞうこ? 食品貯蔵庫なの? 冷たいの? なんで? どうして? このパンは食パンって名前なの? 食べるパン? じゃあ、他のは食べられないパンなの? えっと、じゃあ、こっちは? えっと、この葉っぱは?
ワカバは思っていた。魔法みたいと。
きっと、この状態を見れば、キラは確実にいろ葉に同情したことだろう。そして、きっと、いろ葉に申し訳なく思い、謝るに違いない。「申し訳ない。悪い奴じゃないんだ。許してやってくれないか」と。
ただ、いろ葉はそんなこと与り知らないし、ただこれから始まるだろう共同生活に頭を抱えるだけだった。




