友達と思って欲しいだけなのに……2
果穂は思いのほか足が速く、いろ葉との距離を広げていく。そして、いろ葉自身どうして授業を放って置いてまで果穂を追いかけているのか、分からなかった。これだけ足が速いのなら、リレーの選手を代わってあげる必要はなかったんじゃないかとか、果穂はどうして逃げているのだろうかとか、そんなことを考えながらいろ葉は果穂を追いかけていた。
「椎野さん、待ってよ」
息が上がってしまっているいろ葉は、それしか言えなかった。それも、果穂には届いていない。
果穂はそのまま校舎を出て、校舎裏庭へと向かっているようだった。それはいろ葉を誘うようにして、いろ葉の視界からは外れないようにして。まるで蝶のように軽やかにいろ葉を裏庭へと誘っていた。
もし、いろ葉が果穂のことをもっと知っていたら、虫の嫌いな果穂が裏庭へと走り込まないことくらい知っていただろう。
もし、果穂がいろ葉にとって全く気にも留めない誰かだったとしたら、誘われることもなかっただろう。
きっと、今頃、運針で指を刺し、留めていたまち針で手の甲をひっかきしながら、溜息をついていたくらい。
だけど、いろ葉は……ワカバ曰く『いい子』だったから。
その果穂の異常さにも気付かず、ただ最近姿を見なかった果穂がなぜ授業を放り出したのか、気にしてしまったのだ。
もしかしたら、果穂がいなくなったのは自分のせいかもしれない。本当はリレーの選手だってしたかったのかもしれない。ただ、励まして欲しかっただけだったのかもしれない。
いや、いろ葉はどこか果穂とワカバを重ねていたのだ。
私の傍からいなくならないで……。逃げないで……。
聞きたいことが、あるの。
「椎野さん……待って……」
最近はリレーの練習で走っているいろ葉だが、二階分下りて、さらに校舎裏にある庭へ休憩も挟まず走るのはかなりしんどいものがある。それにもかかわらず、果穂は優雅に舞うように走り続ける。
いろ葉の息は上がるし、声も届かない。
そんな時、椎野果穂が立ち止まった。
「椎野さん……」
膝に手をつき息を整える。
「鈴木さん……」
果穂が振り返ったそこは、いろ葉の大好きだった場所。一番気持ちが落ち着く場所。ほとんど誰も来ない場所。そして、ワカバに酷いことを言ってしまった場所だった。
果穂がいろ葉を見た。紫色の煙が果穂の足元に集まるが、いろ葉は息を整えるので必死で気付かなかった。
「椎野さん。……。どうして。逃げるの?」
いろ葉の言葉に微笑んだ果穂の顔が歪んだ。
「え……」
果穂が何か言ったのだ。
「なんて?」
いろ葉の耳には届かなかった。だからもう一度、聞き直す。果穂に歩み寄ろうとする。
「ごめん、聞こえなかった」
果穂が何か呟いている。
「……て、……魔するの?」
「どう、したの?」
果穂が震えている。寒いというよりも痙攣に近い。怖いと思った。だけど、異変だとは思いたくなかった。いろ葉の知りうる中での体調不良で納得したかった。そう、具合が悪いのかもしれない。いろ葉の思いは目の前で起ころうとしている事実からの現実逃避にも似ている。
いろ葉に対処できる何かであって欲しかった。
「椎野……さん?」
暑い中は走ったから熱中症とか……。熱中症なら、水を飲んで……。もしかしたら持病とかあったのかなぁ。心臓だったら救急車呼ばなくちゃ……。僅かな時間でいろ葉の頭はフル回転して答えを出そうとする。いろ葉が理解できて、しっくりくる答えさえあれば、と探し続ける。これが恐ろしいことの始まりだとは思いたくない。果穂の視線はいろ葉のずっと向こうにある。何を見ているのだろう。
いろ葉の視線はやっと彼女の足元にまとわりつく紫煙へと向かった。
「椎野さん……だいじょ」
「邪魔、しないでよ」
背後で土を踏む音がした。その音がやけに大きく響き、その後に聞き慣れた声が続いた。
「いろ葉、動かないで」
静かな警告だった。
あの時と同じ。黒い煙が手を象って何かを掴み取ろうとしていた。動かないで、と言われても、いろ葉は無条件に動けなかった。
ワカバの声が淀んだ水流に流れをもたらすようにしていろ葉の耳に飛び込んできた。と同時に果穂が……いや、果穂を象る何かが霧散し、黒い何かを増幅させていったのだ。果穂がいなくなる。空かさずワカバがいろ葉の腕を掴んで、自分の背後へといろ葉を庇う。
「い……い……」
何が起きたのか、いろ葉の脳は把握し切れていなかった。ただただ怖かった。知りたくなかった。何を見て何を感じれば良いのかすら、分からなかった。
「怪我はない?」
「いや……だ…いやだ、……し、ししい、椎野さん…………が……」
煙がいろ葉に延びてくる。果穂の一部かもしれない、その霧のような紫の煙が、いろ葉の鼻先に、目先に漂っている。それがいろ葉に吐き気すらもたらしめ、いろ葉は両手で口を押さえた。
なんだかよく分からない。分かりたくない。あれは……椎野果穂じゃない何かであって、夢かもしれなくて、……。だけど、いろ葉の瞳にワカバの背中が映ると、それが現実であることを印象づけるのだ。
制服を着たワカバ。編み込まれているおさげすら突風に飛ばされている。
魔女の姿をしていないワカバが、バケモノの前に立ちはだかっているのだ。
さっきまで、級友達と普通におしゃべりをしていたワカバが、……。夢じゃないし、現実でもない。認めたくない……。椎野果穂がバケモノになってしまったなんて。
混乱しかないいろ葉はワカバの背後に隠されたが、そのままワカバを楯に尻餅をついてさらに後ずさりをしている。
振り下ろされた黒い手に大地がえぐられる。骨の髄を焼くような嫌な臭いが漂った。
立っていられなかった。得体の知れない何か。ワカバと出会った時に見たあの黒いバケモノに似ている何か。息が出来ない。
「大丈夫。あんなにすぐに実体をなくしてしまうような思念に何か出来るはずがないから。わたしの方が絶対に強いから」
ワカバの声は力強く、迷いすらなかった。その声がいろ葉に呼吸を取り戻させる。
ワカバ……。
「ワカバ……」
震えるいろ葉の声にワカバが僅かに振り返った。
怖い、助けて……。助けて。
「ワカバ……助けて……椎野さんが……」
――消えてしまう。
声として発せられたかどうかも分からない、その小さな叫びが聞こえたとは思えないが、ワカバがにっこり微笑んだ。
いろ葉はまるで「助けられるから」と言われている気がして、ワカバに縋った。




