元の世界によく似て違う……3
授業が終わって、その開放感からの賑やかな波が一段落する時間。それぞれがそれぞれの場所に立ち、日常を紡ぎ出す時間。
たった数分で、教室内は授業中から休み時間に変わる。
たった数分。
しかし、いろ葉にとってその数分は居心地の悪い時間だった。
これは、ワカバが一緒に学校へ来てからも特別変わらなかった。ただ、別な不安に変わっただけで。
いろ葉は遠くにある窓を眺めた後、時計を見つめた。授業開始まで後五分。秒針は回り続ける、確実に時間を進める。
その一秒一秒がかけがえのない時間だなんて、いろ葉には分からない。三百秒の間、きらきら光る時の欠片を見つめる行為は、ただ疎外感を増長させるだけだったのだから。
そして、その疎外感を最初に増長させるきっかけを作った人物がいろ葉の傍に立った。
「あのね、鈴木さん……みつるがね……」
珍しく果穂が一人でいろ葉に声を掛けてきた。
「うん」
あ、そっか。この教室には私しかいないんだ。いろ葉は思った。
果穂の話しかけられそうな人間が今はいろ葉しかいないのだ。
「今日、ワカバちゃんは?」
「ワカバは……熱でお休みなの。日本の夏は暑いから、夏バテかな?」
夏バテ……そう言ってみて、魔女にそんな物あるのかしら?と、いろ葉は一人で首を傾げた。そもそもワカバは熱なんて出すような感じがしない。多分、ワカバは……。
「鈴木さん?」
「えっ?」
なんだか、ワカバちゃんに似てきたのかなと思って……。果穂の中に何かが渦巻く。だけど、いろ葉がそれに気付くことはない。
「あのね、みつるがね、ワカバちゃんって走るの得意かなって?」
「走るの?」
「うん、体育祭の話。リレーの選手がなかなか決まらなくって」
不器用に笑う果穂に気持ち悪さを覚える。
だけど、そう、果穂は多分私と同じで、自信がない子なのだ。
「そっかぁ。大変だね。ワカバには聞いておくね。私もワカバのことよく分かんないんだ」
いろ葉はできるだけにっこりして果穂に対応した。
「そうなんだ……」
安心した表情を浮かべた果穂に、いろ葉はそんな風に答えて良かったと思えた。時々話しかけに来るよく分からない友達。なぜか、いろ葉が一人の時だけやってくる不思議な友達。
本当は空木春陽が関わってきていた時も助け出して欲しいと一番に願い、関わらないで欲しいと一番に願った椎野果穂。
「椎野さんも走るの?」
「……みつるが困ってたから……仕方ないかなって」
「そっかぁ」
走るのは苦手なんだ……。だけど、ワカバならきっと。
そう思ってどうしてワカバを思い出さなければならないんだろうと自分の中で激しく否定する。
「だったら仕方ないね」
いろ葉はその言葉を呑み込んでいた。ワカバならきっと自分が苦手かどうかよりも果穂を助けようとする。ワカバなら……。隣の席は空っぽ。いくら見つめても隣の席にワカバはいない。もしも、いろ葉が同じように相談していたらワカバならきっとこう言う。
「椎野さんは走るの苦手なの?」
そう言って後悔する。
この子は私が一番傍にいて欲しい時にいなくなった一人。今だって私じゃなくてワカバを頼っているだけ。
だけど、それは仕方ない。
だって、私たちはとても無力なのだから。
もし、果穂まで一緒に空木春陽に睨まれるようになっていたらと、そう思うだけでいろ葉はきっと不幸だと感じていた。おそらく、一人よりもずっと苦しんだだろう。だから「来なくてもいいよ」と言ったこともある。いろ葉は一人でいることを恐れることはない。だけど椎野果穂は違う。何を選んでもあの時選べる未来は良くなかった。多分、最善だった。いろ葉は思う。それでも傍に来て欲しかったとは、単なる我が儘でしかない。
だから、今はそれは関係ないはず。どこかでやはりワカバがちらつく。どっちを言うのだろう?「嫌なら断ればいい」なのだろうか。あの時、ワカバはいろ葉にそう言った。
「いやだって言えばよかったのに。それを許容できない相手ではなかったはず」
簡単に言ってくれる。それが言えれば、怖くなければ誰だって……。だから、いろ葉は自分を鼓舞した。
ワカバには負けたくない。
「代わってあげようか? 走るのは苦手だけど嫌いじゃないから……」
果穂の表情がほぐれる。いろ葉は人がほっとするこの表情が好きだ。何かの役に立っているような気がする。だけど、すぐに後悔する。きっと偽善とはこういうことを言うのだろう。
そして、ワカバを思った。ワカバなら、どうしたのだろうか? 本当に代わってあげたのだろうか?
不安に苛まれるいろ葉だが、すぐにその考えは打ち消した。
どうしてワカバのことなんて……。ワカバなんて勝手ばかりする、いつかいなくなる他人なのに。いろ葉の心はなぜかずんと沈んでしまうのだ。




