元の世界によく似て違う……2
帰ると言っても、実際には今のワカバの『時』は失われていた。
帰るとしても、そこには別のワカバがいて、もしかしたら別の未来を紡ぐかもしれない人間たちがいる。だけど、ワカバはラルーにどうしても会いたくなったのだ。
ラルーなら……。
時輪の森の中に佇む小さな青い屋根の木造二階建て。庭木は鮮やかな緑に染まり季節の実をつけており、扉には蔦が伸びている。唯一外界とのつながりを持つ木の門から見えるのは木造デッキ。そこにはラルーがお茶を飲みながら指すチェス盤があり、裏庭に回れば時を流す井戸があり、薬草や色とりどりの花が季節ごとにつぼみを膨らませていた。すべてが懐かしい。だけど、すべてが靄に包まれたようにはっきりと自分の中に入ってこない。ここはワカバの世界であり、『ワカバ』の世界ではないのだ。それなのに懐かしさに涙があふれそうになる。
おんなじ。
ワカバはそっと裏庭にある勝手口を開いていた。
そこはお台所。ここでラルーはワカバにお菓子を作ってくれる。ワカバもここでお料理を教えてもらった。お台所を抜けると廊下があり、玄関の方へ向かえば調剤室がある。
その二つの部屋でラルーはいわゆる魔法と呼ばれるものを使ったことがない。
いや、そもそもラルーは魔法を嫌っていた。だから、日常で魔法と呼ばれるものは使わなかったし、トーラを紡いだのも、あの時だけだった。
ワカバがトーラを持った時。その一度だけ。
ワカバは懐かしい思い出の詰まったお台所と調剤室を背に段差の低い三段の階段を下りる玄関へとは反対側へ進んだ。
その先にはトーラを紡ぐための部屋がある。
たった三段。簡単に飛び降りることの出来る、そんな高さ。そこから見える景色が魔女の見る世界。
人間であることと魔女であることはそれくらいしか変わらない。だけど、僅かに差があるのだ。
ラルーがワカバに教えてくれた時には分からなかったその言葉の意味は、今のワカバにとって当たり前のように浸透している。
薄暗い先にある扉を押すと、ハーブの匂いが外へ逃げ出そうとした。天井にいくつも吊ってあるドライハーブの匂いだ。
いろ葉の世界にある図書館よりもずっと小さい読書室。しかし、世界のことを調べるにはどの世界の図書室よりも充実している場所だ。トーラが世界創世に使う星読みの間とつながっているこの場所で、ワカバは時を紡ぐのだ。
ここにはすべての過去への入り口がある。ワカバもラルーも過去を変える時はここで下調べをしてから、歪みが出ないように整えてきた。
簡素な木の机、そして、背もたれのない椅子に腰掛けて、ワカバはその机においてあった緑の本を手に取った。軽くページを開けると文字が浮かび踊り出す。着地した場所に並んだ文字はおそらくまた別の過去を描いたのだろう。消えたわけではない。
きっと今の変化はこの時間のワカバが過去に戻ってこの時間を脅かす過去を消していたのだろう。それは何度も繰り返されて、何度も天秤にかけられて、何度も選んできた『今』なのだ。
普段のワカバはこの読書室で変わってしまった過去を書き留めていた。ワカバがすべきことは『ワカバが何を知っていて何を知らなかったのか』を見つけること。
知らなかったことは、書き留めて残しておいた。
いつか、ワカバではないトーラが現われた時に、その過去を求めるかもしれないから。
ワカバがトーラとして存在しない過去なんて、すぐに作り出せるのだから。
例えばここに生きる人間が、ワカバがトーラであることを止めさせたいと願うのならば、キラにワカバを殺させればよかったのだ。
この時の中には、キラがいるのだから。ワカバが殺せない相手がいるのだから。
たぶん、それは今も流れている過去でせめぎ合っていて、どこかのワカバがそれを選んでしまえば、もしくはキラが選んでしまっていれば、この世界も終わってしまう。
そして、ラルーはそれを望み、実行し、後悔したと言っていた。きっとそれはラルーが優しいからだ。自分の望むように世界を変えるために、ワカバを使えば良かったのに、ラルーはそれをしなかった。
それに『ワカバ』を消したかった者は何もラルーだけではない。だけど、その誰にもワカバは負けなかった。
ワカバを恨むことで自分の未来を歩む道を選んだ者もいた。
ワカバと同じように誰かを思うために、自身の存在を歴史から消すことを望んだ者もいた。
大切なものを見つけ、それを守るために生きる者もいた。
ワカバは様々な魔女に勝った訳ではない。出会った魔女たちにワカバがそう思うように仕向けたのだと今なら言えるのかもしれない。ただ、どの時にも言えるのは、ワカバは負けなかっただけなのだ。
この世界が大切だったから。ラルーの言うとおり負けなかった。だから、消えた過去も書き留めておく。
どこかにワカバに繋がる糸があるかもしれないから。
この時代だと描いたのはワカバ自身。しかし、ワカバ自身だとしても、ワカバが必ず今のワカバと同じ過去を選んでいるかどうかは分からない。僅かな誤差が広がれば、崩れてしまうかもしれない儚い世界をワカバはずっと護り続けている。
星読みの間は実際に世界のどこかに存在する場所ではなく、時間の狭間にある空間のようなものだとワカバは思っている。そして、その星読みの間に行き、完全に世界をその手に収めていたことのあるトーラはおそらく初代のトーラとワカバくらいだろう。
ワカバですら世界を完全に変えたことはない。ワカバがしたことは過去を準えただけ。それだけでも歪みが生まれた。ワカバはそれをとても後悔している。
大きな変化を起こしたことのあるトーラは、初代トーラだけ。
彼女だけが世界を変えた。
人間の望むままに。
ラルーはそこで未来を見つめ、今を正し、ワカバはそこで過去を見つめ、歪みを正す。
そして、こちらで及んだ影響が、さらに過去を消し始めるのだ。
ワカバがいろ葉の世界に気付いたのはもう少し後のことだった。いろ葉のいる世界は、ワカバの持つ世界とは決して交わることのない世界だった。遠い過去であり、失われた過去であり、こちらの世界に影響を及ぼすことのない世界だった。
それにもかかわらず、この辺りから過去の歪みがこちらに影響を及ぼすようになるのだ。
ラルーはそれを『妖魔の仕業』と呼んでいた。また文字がふわりと浮かぶ。
「あっ」
ワカバの小さな声が静かな場所に響いた。
文字が崩れるようにして、空気の中に溶け込んだ。過去が、消えた。
ワカバが何もしないのに消えていく何か。物語を紡ぐ前に消えてしまう何か。それは世界なのか、人なのか、はたまた魔女なのか。着地もせずに消えていく文字を見つめて、ワカバは大きな不安を抱えるようになった。
変化を着地させずに消してしまう魔女がいる……。いつしか、それがワカバの世界をも侵食し始めたのだ。
初めはワカバがこの世界の遺児として存在していたはずの魔女達だった。ワカバが時を与える前に彼女たちが消えてくのだ。
その後、それがワカバの駒へと広がり、世界に綻びをもたらし始めた。綻んだ世界が消えていくのに、時間はかからなかった。
いくら繕っても、糸は解けて繋いだ過去を切り離してしまう。
時を止めるしか手立てはなかった。時を凍らせ、維持する。だから、ワカバ本来の世界は今凍っているのだ。
今もワカバは負けてはいない。しかし、空木春陽の言ったように、勝たなければ意味はない。
それなのに、ラルーは言った。
「負けなければいいことですわ」
いったい誰が……。どんな理由で? そんな時、ラルーがこの世界の存在をワカバに知らせたのだ。
それがいろ葉の住む世界だった。
行ってみて分かった。
勝手に歴史からいなくなるのだ。自ら望んで消えようとする。
この文字のように。椎野果穂や鈴木いろ葉のように。
トーラですら自ら消えようとする世界。
そんな世界がワカバの世界を消そうとする。消えたいのなら、勝手に消えれば良いのに。どうして、ワカバの世界を消してしまうのか意味が分からなかった。
「どうして教えてくれなかったの?」
問い詰めるワカバに、ラルーが言った。もしかしたら巧妙にラルーがその世界を隠していたのではないかとすら、勘ぐった。
「あなたが知る必要のない世界でしたから」
どうしてそんなことを言うのかも、やはり分からなかった。だけど、すぐ後に続けられた言葉が脳裏に貼り付いて取れない。
「少なくともあちらの世界に影響を与えているのは、こちらの世界のトーラですわ」
こちらの世界のトーラ……。
=ワカバである。ワカバのせいであちらの世界のトーラがこちらの世界を消そうとしている。
最初は本当にどういうことか分からなかった。その世界の存在すらワカバが気付かないくらい、いろ葉の世界はワカバの世界に無関係だったから。
しかし、そんな世界が全てを呑み込もうとするようになった。ワカバにとっていろ葉の世界が無関係ではなくなったのだ。
もし、いろ葉がその妖魔に寄り添ってしまえば、妖魔は世界を覆うことが出来るようになるのだろう。その妖魔を動かしているのはあの『紫煙』だ。時に容を得る、あの核を持ち紫色の煙を纏う妖魔。
カタ。
扉が開いた。
驚くこともなく、ラルーがそこに立ってワカバを見つめていた。たぶん、ラルーはワカバが泣きたくなるくらいに胸を締め付けられていることに、気付いていないのだろう。
だって、わたしは今ちゃんと笑っているんだもの。
「早いおかえりでしたのね」
あ、そっか。今ここに存在している『ワカバ』は出かけているんだものね。そう思うとなんだか寂しい思いが込み上げてくる。
「ただいま」
ラルー……あのね。もし、勝手にいなくなるように仕向ける何かがいるのだとしたら……。
この時のラルーは知っているのだろうか? ワカバの世界が侵食されるのはもっと未来。人間の時間で言えばまだ五世代は後になるだろう。
「ワカバ? お時間あります?」
ワカバはきょとんとしてラルーを眺める。なんだか寂しそうな表情のくせに、その声色は嬉しそうだった。いくら考えても、いくら心を覗いてもラルーの心はいつも真っ暗。時々漏れてくる声は泣き声。
「お菓子を作ろうと思いますの」
そう、ラルーはいつも微笑んでくれている。
「ワカバの好きな焼き菓子なんていかがです?」
ワカバもにっこり微笑みそれを了承した。




