深淵を覗く
ワカバが帰ってこない。これは私のせいだ。
いろ葉はそんなことをずしんと胸に抱えたまま、勉強机を前に今日出された課題を解いていた。
数Ⅱそう書かれた教科書をめくり、公式を当てはめてみる。公式は解き方と当てはめ方さえ覚えれば、誰にでも解ける。ただ、どれを当てはめれば良いのかを探すのが大変なだけで。
それは化学式然り。
いろ葉はそれが苦手で理系を諦めた。
参考書を開く。こんな場合は『こう考えよう!』指印のポップアップが指し示す公式を見つめる。
全く頭に入ってこない。こんな場合……。それに対するポップアップはいろ葉の中に存在しない。きっとどの参考書にも存在しない。
リビングから母の声が聞こえてきた。父が帰ってきたのだろう。いろ葉は落ち着きなく、扉を見つめ、その視線をまた参考書に戻した。聞きたくもないのに、いろ葉の聴覚は冴えきっていて、階下の言葉を拾ってしまう。
「ワカバちゃんがまだ帰ってこないの」
その後から、父の声。
「いろ葉は何か知らないのかい?」
階段を上る音。いろ葉の部屋へ向かうのか、そのまま自室へ戻るのか。
足音は遠くなり、扉の開閉音が聞こえた。安心したのは確かだ。しかし、ドキドキは治まるどころか、酷くなる。扉が開けば「知らない」と言えばいい。だって、本当に知らないのだもの。
大丈夫、だってワカバだもの。
大丈夫だって、あの子『変』だもの。
『変』っていっても、空を飛ぶとかいうもう理解不能な変だもの。
シャープペンシルのおしりを押して芯を出す。あぁ、出し過ぎ。もう一度ゆっくりと押してそっと出し過ぎた芯を押し戻す。x=と書いて消しゴムで消す。単純な足し算が複雑な数式に見えてくる。頭が全く動いてくれない。
芯が意味もなく折れてノートの先へと飛んでいく。忙しなくまたシャープペンシルのおしりを押す。
カチャカチャカチャ。
答えは出ない。
出し過ぎた芯を引っ込める。
答えを出そうとして、ノートに向き合う。
小さな音を立て、その芯が、折れる。
また扉の開閉音。階段を下りる音。父の声。
「9時かぁ。連絡もないなら警察に相談しようか」
もうダメだ。私のせいでワカバが……。『帰って』なんて言ったから……。
でも、帰れていないから父も母もワカバのことを探すのだろう。あぁ見えてワカバ抜かりない。抜けているようで、ちゃんと着地点に降り立つ。もし、帰ってしまったのならば、父母の記憶も学校の友達も、もしかしたら、私の記憶だって元に戻してから帰るのだろう。
いろ葉はワカバという子を考え巡らせ、そう結論づけた。
ということは、何かあったんだ。だって、ワカバはまだ高校生の女の子だもの。
そう思うと、今度は不安で心臓が喉の奥から飛び出してしまうのではないだろうかと言うくらいにいろ葉を責め、吐き気をもたらした。
扉の前に立ち、ノブに手をかける。そして、ノブから手を離し、また椅子に座る。読みたくもないのに教科書を開け、解きたくないのに問題に向き合う。
どうしよう。魔女だって言っても世間知らずで好奇心旺盛で、何にでも首を突っ込みたくなる子だから。事故で大きな怪我をしていたらどうしよう。怖い人に攫われて膝を抱えて泣いていたらどうしよう。
助けて、と叫んでいたらどうしよう。
階段を上る音二人分。
いろ葉の部屋の前で音が止まる。扉を見つめて参考書を伏せたいろ葉はそのまま動けなかった。
なんて言えばいいのだろう。謝れば良いのだろうか。それとも言い訳するのだろうか。叱られるのだろうか、それともがっかりされるのだろうか。
ワカバが死んでしまっていたら……どうしよう。
いろ葉は最悪を想像し、その後の未来を見つめ、生きていくということに対する希望を失った。
ワカバがこのままこの世界からいなくなってしまったとすれば、それは、いろ葉のせいなのだ。
暗闇の中にあった蝋燭を、吹き消してしまった気がした。
いろ葉は、やっと手に入れた光の頼りなさにだけ目を向けてしまっていたのだろう。だけど、暗闇になって再びその光の温かさに気づいてしまう。人とは得てしてそのように出来ている。それはいろ葉も変わらない。
深い深い闇の中、いろ葉は光を求めて手を伸ばしていた。助けて……と声なき悲鳴を上げていた。そんないろ葉の耳に、光とも思える声が聞こえた。
「ただいま」
声を聞いた途端いろ葉の瞳からは涙が流れていた。それなのに、感情はどんどん黒くなる。さっき落ちていた闇の中に再び足を突っ込む。深淵はいつもいろ葉のすぐ傍にあり、いつでも生温い温度を保ちながら出迎える。
完全に呑み込むまで、その口は閉じられることはなく、光に目がくらんだ人間を誘い込もうとする。
―――さぁ、おいで。ここなら見たくないものを見ないですむから……。
踵を返すようにして階段を下りる音が二つ。そして、耳をそばめる。声が3つ聞こえてくる。
「遅くなってごめんなさい」
「どうしてたの? 心配したのよ」
「友達のお家でラーメンというものを食べさせてもらったの。心配かけて本当にごめんなさい。こんなに遅くなるつもりは全くなかったんだけど、大事な友達だったから」
階段を通って聞こえてくる声にどうしていろ葉が「帰って」と言ったからと言わないのかがいろ葉には気になった。そして、そんなことに意識を向ける自分がとてつもなく汚いものに思え、胸が痛くなる。
「いろ葉も何にも言わなくて……いろ葉は知ってたの?」
声はない。だけど、ワカバが頭を振る姿がいろ葉には見えた。ワカバはきっと嘘は言わない。
だって、私は知らなかったもの。ワカバに大事な友達がいることなんて。
こんなに遅くなるまでおしゃべりを楽しむ親友が出来ていただなんて。
いろ葉の中には考えたくない言葉がたくさん生み出されていく。なんで良かったって思えないんだろう。ワカバがちゃんと帰ってきてくれて、嬉しいってどうして素直に思えないんだろう。
いろ葉の心配はワカバが帰ってきたという時点で別の方へと向いていく。
「本当に心配したのよ」
「もう何の連絡もなくこんな遅くなることないと約束してくれないかな」
父も母もワカバにどんな眼差しを向けていたのだろう。いろ葉だったらきっともっと叱られていた。ワカバだから、叱られずにあのくらいで済むのだ。どうしてワカバだけ? いろ葉はその答えがちゃんと目に見えていた。だって、ワカバは良い子だから。
私は心配ばかりかける子だから……。
だから、扉の向こうから「ワカバちゃん帰ってきたわ」という弾む母の声に「うん」と短く声を出しただけで返事をし、いろ葉はそのまま安心を塗りつぶす汚泥のような感情を隠すようにして、参考書の上に突っ伏した。




