異世界に来たようでそうでないような……2
悪いかにもな男子二人に声をかけられ、彼女が詰め寄られている。『トーラ』を狙っているわけではないだろうが、ワカバも同じように追い詰められたこともある。それも、彼女と同じように力が弱かった頃。いや、それも異なる。
彼女はちょうどワカバの足下ずっと下にあるビルの陰へとその二人に追われるようにして、誘導されてきており、さらにはいろ葉からは見えていないのだろう場所にもう一人その仲間らしき者がいた。いろ葉のスカートと同じ模様のズボンを穿いて、後方から隠れるようにして冷たい視線を投げつけている少年。こっちの雰囲気はややキラに似ている。ちょっと近寄りがたくて、怖い感じが。しかし、ワカバにとってのキラとは大きく異なる雰囲気があった。
その彼の背中にも微かな紫煙が感じ取れるのだ。大きく見ればいろ葉の敵にあたる。
ワカバはそんなことを思いながら、彼女を助けるために、ビルを急降下していた。ワカバにとって今この世界が消え去ってしまうと都合が悪いのだ。いや、都合というよりも気持ちも含めて様々なワカバの準備ができていない。
風圧を切るようにして頭をさらに下げて、ワカバはさらにスピードを上げる。そして、アスファルトが認識できる頃、ワカバ自身に掛かってくる負荷を真逆にした。きっと瞬きくらいの時間で大丈夫。そして、そのくらいの時間でないと、過去を削ってしまう恐れがあった。誰にも気付かれないように、時間を止めて近づくアスファルトを見つめながら、ワカバはゆっくりと体勢を整えた。
ワカバの身につけていた銀ねずのマントがその華奢な体をふわりと包みこみ、長い栗色の髪が何事もなかったかのように遅れてその肩に降りかかると、鮮やかな新緑色の瞳が、彼らに、いや、いろ葉に注がれた。
猫もかくやとばかりに光るその瞳に少年たちが息を呑む。
赤、黄に着色された髪を持つ、黒い服を着た少年二人。そして、彼女と同じ青い上着を着た少年が背後で怯んだ。どうして彼らはこんなに怯えているのかをワカバは考えて、あぁ、人が落ちてきたからか、と一人で納得する。基本、人間は頭上からは落ちてこない。そして何より、高層ビルから落ちてきた人間が音もなく着地して無事なわけがない。そして、気丈に逃げずにいるが、怯むもう一人の彼を見て、ワカバは考えを改めた。
雰囲気は似ているが、彼らはワカバの世界にいた誰よりもずっと軟弱で、彼はキラよりもひ弱だ。ただ、陰に隠れておけばいいものを、姿を現した点は好ましい性格としての評価はしてもいいのかもしれない。要するに呑まれていないのだろう。
さて、小物が3匹。次はどう動く?
ワカバが小動物に準えて彼らを考えた。
よく分からない叫びと共にナイフを振りかざす少年の一人の腕は震え、腰はかなり引けていた。そして、彼らよりもさらに腰を抜かしている彼女に振り向き、ワカバはにこりと笑った。
「こんにちは」
彼女の怯えは止まらない。うまく笑えていなかったのだろうか、と首を傾げる。ワカバはラルーに比べると、微笑むのが下手くそなのだ。ぎこちなかっただろうか。まぁ、いいか。後ろが騒がしい。人間ってやっぱり苦手かもしれない。ワカバはそのずっと敵意を消さない彼らに向き直り、一番の危険を見遣った。とりあえず、妖魔は一匹。ワカバの相手はこいつ。なのだけど。
その小五月蠅い人間達が何を喋っていたのか全く気にもしていなかったワカバは、その一人が叫んだ「無視するな」という言葉に首を傾げる。そして、さらに冷静に彼らの起こそうとしている行動を否定した。
「えっと……助かりたかったら動かないでくださいね」
馬鹿にされたと思った少年がワカバの腹部めがけて、ナイフを構える。ただ、その腰は確実に引けているし、膝は震えている。やはり、こっちの世界の人間は弱いのだろう、とワカバは結論付ける。
「彼らも一緒に助けた方がいい?」
彼女に向けた質問だった。もちろん、彼らは気づいていないのだろう。あれは結構大きな紫煙であり、既に実質的な攻撃を伴うものであること。そして、もうすぐすれば、容を形成する『妖魔』になり得るだろうものだ。
それ以前に、彼女はその存在そのものに気づいていないはず。無駄に血が飛び散るのは避けたいし、仕方ないか。ワカバが答えを求めた彼女の口は開きそうにもない。
答える代わりに警戒を強める彼女。警戒することは大切なことだ。だって、ワカバは魔女だから。安心する理由などないのだから。だから、微笑む。ラルーのように。不敵の笑みを。
「わたし、ワカバです」
そして、ワカバは自己を確かめるように名乗り、軽く会釈をする。ワカバの目には目を丸くして、金魚のように口をパクパクさせている彼女の姿が映っていた。
「えっ、あ、鈴木いろ葉…です」
反射的に名前を名乗り返した彼女は、きっと、いい子なのだろう。ワカバはそれで安心した。ワカバが再びにこりとすると、時が止まった。空気が澱む。その空気を慎重に動かす。なかったことにする。簡単な方法だけれど、トーラを紡いではならない。しかし、時を操れば簡単に欺ける。そして、あいつだけを連れて行ける。ワカバが囁いた。変える、ではなく、止める範囲を絞る。
「えっと、いろは、動かないでね」
動き迫ってくるのは黒い影のみ。いろ葉が動けるわけがなかった。あんなもの。いろ葉はこの不良に絡まれただけで動けなかったのだから。そして、ワカバがいろ葉の腰に両手を回し、そのまま足を踏ん張り反動をつけるようにして、飛び上がった。
ワカバの抱えるいろ葉が手足を縮める。例えばこのまま猫か何かに変えてしまえば、結構楽に運べるだろうな、という思いを脳裏に過らせながら、ワカバは黒い影を睨めつけた。
「さぁ、あなたの望みはなんなのかしら?」
答える口があったのならば、きっと、こう答えただろう。
『こんな世界いらない』と。だから、彼女を狙うのだ。
いろ葉の眼下では時の動き出した不良たちがお化けじゃなんじゃと騒いでいる。そして、目の前にはあの黒い塊が……いや、違う。夜空に開いた穴に、黒い塊が吸い込まれている。そして、最後、タコの足の様な先っぽが吸い込まれ、その全てが呑み込まれてしまった。
呆気なかった。まるでうどんを吸い込むみたいに、消えてしまったタコの足。
いろ葉はある意味、とても冷静にその全てをその目に焼き付けていた。しかし、その全てを理解していなかった。まず、このワカバという女の子。とんがり帽子は被っていないが、いかにも魔女のコスプレをしているような恰好で、黒いドレスに灰色のフード付きマントという出で立ち。濃い茶色の髪は長く、腰に届いてしまう程。だいたい、彼女の細腕のどこに、いろ葉を抱き上げる力があるというのだろう。そして、どうして、空中に浮いているのだろう。頭の中はぐちゃぐちゃになっているが、そんなことはお構いなしというワカバが「あっ」と声を上げた。
「血判つけるの忘れてた……」
その言葉が何だか空しく、空に響いた。
その不可思議さを強調するかのような彼女の新緑色の瞳が、闇夜に輝いていた。