それは青天の霹靂によく似たはじまり
鈴木いろ葉は言うまでもなく、学校では最下層といわれる場所で生きている。いろ葉自身は、空木春陽のいない今はおおっぴらにいじめられいているということはなく、ただ静かに過ごしているだけの幽霊、もしくは空気みたいな存在なのだと思っているのだけれど。ということは、最下層でもないのかもしれない。しかし、それを改革したいくらいに苦痛だとは思っていないのは確かだ。ただ、どうでもいいと思っているだけで。どちらかと言えば、本当に幽霊か空気だとうれしいと思っているだけで。
変に見えてしまって、また夏休み前の一時に戻るのだけは嫌だと思っているだけで。
鈴木いろ葉は、頬杖をつきながらホワイトボードを見つめる。朝一番の白いボードがクラスの照明をわずかに反射させているのが見えた。そして、その上にかけられている駅にあるような丸い時計を見つめる。長針が8の手前、短針が少しずれた8。
時を告げることだけに特化したその時計の秒針が滑らかに滑っていく。
いろ葉もあんな風な存在なのだ。
いろ葉が時を刻む音に気づく者もいないし、また気づかれたくない。
普段は平穏なのだ。
ワカバと出会ったあの日は空木春陽がいたという究極に不運が重なっただけで。きっと、空木春陽が「あいつなら簡単に絞れる」とかなんとか言ったのだ。
空木春陽がいないだけで、いろ葉は日常空気でも平気だった。
しかし、ぼんやりと頬杖をついていたはずのいろ葉は、究極の不運に見舞われたあの日以上の衝撃を受けていた。
始業式が終わって3日が過ぎたその日のホームルーム、いろ葉は自分の視線の先にある人物が現実のものには思えなかった。
「時森わかばです」
ホワイトボードに書かれる名前は見たことのない名前、聞き覚えのあり過ぎる名前が書かれてある。
雲上学園は進学校だ。そう、外部入学がとても難しい。いや、転入生なんて前代未聞なんじゃ。いやいや、それよりも、ワカバっていつ試験を受けたの? もしや、また記憶をいじったの?
最近誰かの記憶を触ることのなかったワカバに油断していたいろ葉は、いろ葉と同じ制服に身を包んだ、少し日本人離れしているお人形のようなワカバを凝視していた。
ライトグリーンの瞳をしておきながら、何、純日本名で自己紹介なんてしているの?
その答えは普通に担任の平泉から紹介される。
「彼女はリディアス王国出身で、お父様が日本人だそうです。そこで、日本に留学されることを決められました」
突っ込みどころ満載なのは、いろ葉だけのようだった。リディアス。確かにワカバの口からその国の名前は聞いたことがある。地球のどこにもない国で、だけど、誰もがお米を炊くとご飯と呼ぶくらいに当たり前に知っている事項。
嘘でしょ? あの子、もしかして、本当に世界中の人の記憶いじってたりするの?
口に出さずに、あんぐりしていたいろ葉をワカバが今朝と同じような微笑みで見つめ返してきた。
「よろしくお願いします」
しかも、ちゃんと喋ってる……。お辞儀まで45度で、きれいに頭を下げている。
普段のワカバを知っているいろ葉にとって、常識をわきまえているワカバがいるなんて、目から鱗が落ちてしまうレベルだ。天井から目薬、晴天の霹靂そのものである。もう、いっそのこと本気でへそで茶を沸かしてしまおうか。
というか、これ全部、ワカバならできるんじゃないだろうか。
夏休みの間にあり得ないことをやらかし続けているワカバを見てきたいろ葉には、その妄想も簡単に信じることができてしまう。
「鈴木さんのお家にホームステイしていらっしゃるそうですので、学校に慣れるまで、鈴木さんの隣に座っていただきましょう」
有無を言わさぬその説得力は、もちろん担任の言葉にも存在する。そして、そこはずっと無断欠席している空木春陽の席でもある。
いろ葉とは違い、最上層にいたはずの彼は夏前に生活指導の教師を殴り、そのまま来なくなったとも言われているが、真実は分からない。そして、その曰く付きの彼の席に、同じく曰く付きのワカバが座る。もはや、呪われた席である。
好奇の視線を一手に集め、ワカバがストンとその呪われた席に腰を下ろした。
「やったことはないけど、多分全部できると思う。でも、目から鱗はさっきトイレの鏡の前で見たよ」
前を向いたままいろ葉にだけ聞こえるようにして言った後、にこりといろ葉を見やる。
ワカバは一体どこでこの当たり前の処世術を覚えたのだろう。
「やっぱり、この世界の人間ってすごいね」
ワカバは真剣にすごいと思っている。そりゃあ、目から鱗が出てくる人間なんて、まず存在しないのだから、そんな人がいれば確かにすごいことだとはいろ葉だって思う。
だから、まずはコンタクトレンズから教えますね。
いろ葉は丁寧に心の中で呟いてみた。




