「ありがとう」と「ごめん」の魔法は難しい……2
いろ葉はカーキ色のズボンにふわふわの白いブラウスを揺らしていた。そして、白いブラウスに描かれている黄色い小さな花模様はいろ葉によく似合っていると思った。
ワカバはいろ葉の言っていたショッピングモールのエレベーターホールでそんな彼女を見遣り、その天井を見上げた。
ここより上はお店ではなく、会社が入っているのだそうだ。前方には大きな窓ガラス。そして、ワカバが反射して映って見える。
ワカバはいろ葉があまり好きではないという小花模様のワンピースを身に纏っていた。少し、丈が短いらしい。確かにベンチに座るワカバにもいつもあまり見かけない自分の膝小僧が目に映る。
いろ葉に似合うだろうと、いろ葉の母親が高校入学のお祝いに買ってくれたものらしい。一度着たきりで、その後はずっとクローゼットの中に吊りっぱなしになっていたものだ。
それなのに、いろ葉の母は、ワカバがそのワンピースを着ている姿を見て嬉しそうにした。
「ワカバちゃん似合うわ。いろ葉は着てくれなかったから」
いろ葉も似合うと思うのに。いろ葉が着ればお母さんはもっと笑顔になるだろうに。
たくさんジュースの入った箱のスイッチを押して、ごろりという音を立てたパックジュースを下部にある出口から取り出す。夏休み最後の日曜日の駅前ショッピングモールはワカバにとって、どこから湧き出してきたのだろうと思えるほどの人集りだったが、いろ葉にとってはあんまり混んでなくてよかったというものだった。映画館という大きな画面のテレビの向こうには、テレビのそれとは違い、巨人が住んでいて、テレビの小人達と同じように会話をして笑って泣いて、歌を歌って去って行った。テレビとの違いは、歌を歌う時に全員いなくなって、この世界の人の名前が流れていくところだった。
この世界のどこに巨人の国があって小人の国があるのかは、まだ分からないままだったが、この世界の人々がそれらと友好関係を築いているのだろうということはよく分かった。
その後、たくさんの服が飾ってあるお店や色とりどりのお菓子を置いているお菓子屋さん、図書館と同じくらい大きな本屋さんを回って、上下するエレベーターという箱を背にして椅子に腰をかけた。
最初にいろ葉に出会った場所より低いが、ここも相当高い場所にあることが、ガラス越しによく分かった。ガシャンとジュースの落ちる音がして、いろ葉がワカバの横に腰掛けた。
そのいろ葉の表情は浮かない。そして、立ち止まる度にワカバに謝罪する。
夏休み最後の試験を頑張って合格したはずなのにと、ワカバは不思議になって、首を傾げたままだった。
「本当にごめんね」
どうしていろ葉が謝らなければならないのだろう。それは仕方のないことなのだ。お父さんは次の連休には一日クラブも休みにするから、その時に海に行こうと言ってくれているわけだし、いろ葉だって怠けた結果、最後の夏休みの日曜日に海に行けなくなったわけでもない。それに、ワカバを『お買い物』というものに連れて行ってくれている最中なのだ。そして、たくさんの人間観察をして満足しているのに、何も買わなかったワカバにオレンジジュースを買ってくれた。
だから、不思議で仕方がない。事あるごとに謝られるということは、ワカバが今まで生きてきて一度もなかったのだ。やはり、いろ葉は特別なのだろうか。
「いろ葉は頑張ってくれたでしょう? 都合が合わなかったのもいろ葉のせいじゃないし。別に誰かのせいじゃないでしょう?」
溜まらなくなったワカバはついすべてを否定してしまっていた。いろ葉は頑張らなくてもいいものを頑張った。
「そう、だけど……」
そして、やってしまったと思った。
いや、そんなことを気にする必要はないということを伝えたかっただけなのかもしれない。
わたしは何も気にしていないよ。今日は楽しかったよ。気にしないで。元はといえば、海を見たいなんて言ったから。本当は、海を見たかったんじゃなくてあの海の色を見たかっただけだから。ごめんね、言い方悪かったよね。いろ葉は、優しいから気を回してしまったんだよね。
「違うの。あのね、いろ葉が悪いんじゃなくてね。えっと……そう、ありがとうって言いたくて。だからね」
そんな顔しないで。いろ葉の表情がくしゃりとなってしまう。ワカバはいろ葉のことを責め立てたかったわけではない。ただ、どうして、そんなことを気にするのか、どうして謝るのかを知りたかったのだ。
いろ葉は楽しくなかった? だったら、わたしが悪いんだから。
ありがとうって言いたかった。だけど、ごめんね、も言いたくなる。どっちを言えば正しいのか、分からない。
「あのね、だから」
『ありがとう』の魔法は難しい。ワカバはいつも使う場所を間違えて、なんだか分からないわだかまりだけを残す。そのわだかまりはしばらく心の奥底で場所を構え居座り、いつのまにか『普段』に戻っていくのだ。ただ、それが居座った跡はなんとなく残っていて、まるで、主人のいなくなってしまったベッドのくぼみとか、そこだけ生長を止めてしまっている雑草とか、そんな痕を残していくものなのだ。
それは言えなかった謝罪にもよく似ているのかもしれない。
「ありがとう」と「ごめんね」は異なる意味を持ちながらよく似て曖昧だ。
「違うの。ワカバが悪いなんてこと全くないよ。あのね、じゃあ、私がワカバにしてあげられることって何かない?」
いろ葉はいい子だ。ワカバは思う。だけど、今のいろ葉では何も出来ない。もしかしたら、もう少し未来になれば役に立つかもしれない。そう思ったワカバが言葉に詰まる。いろ葉からしてみれば、それは結構珍しいことだった。いろ葉の目に映るワカバはいつも何か楽しそうで何にも迷わない。しかし、ワカバの実際はそうではない。
何も喋らないということは、失礼なこと……。
ワカバの脳裏に過去の言葉が過ぎった。あれはシャナの言葉だ。キラのことを毛嫌いしていて、ワカバのことを好きだと言ってくれた初めての人間。
いろ葉に何も答えないというワカバのこの状況は、いろ葉に失礼になる。だけど、……。そう考えたワカバは、どうして今いろ葉に話せないかを考えた。そう、ワカバはいろ葉が好きだから話せないのだ。嫌われたくないから、いろ葉のいる世界よりも自分が護ってきた世界の方が大切だなんて話せないのだ。
「あ、いろ葉? あのね、わたし、いろ葉のこと好きなの。だから、大丈夫」
いろ葉は悪くない。ワカバは真っ直ぐにいろ葉を見つめた。
それなのにいろ葉が何故か慌てだした。目を白黒させて、どぎまぎする。ワカバが押しかけてきた時にいろ葉が自分自身を納得させるために使った『ストーカー』疑惑が復活してしまったのだ。
「あ、え? その…それって、どういう?」
「どういう?」
首を傾げたワカバの目には、なんだか慌ただしいいろ葉が映る。
「えっと……深い意味はないんだよね?」
深い意味はない? 深い意味は大ありだ。今のいろ葉には何も出来ないけれど、いろ葉はこの世界でのトーラでワカバも世界は違うが同じくトーラなのだから。嫌いだったら、こんな世界、すぐにでも消していたかもしれない。なぜなら、ワカバの大切な世界はあっちの世界であり、護らなければならないのもあっちの世界なのだ。こっちの世界に消されたくないのだ。
ただ今のいろ葉にそんなことを言ったところで理解できないだろう。普通の人間がそんなことすんなりと受け入れられるはずがない。受け入れて面白がるのであれば、……。ワカバは頭を振りたくなった。
純粋なトーラであれば、受け入れて面白がるのかもしれない。ワカバだって『ワカバ』を放棄してしまったらどうなるか分からない。
しかし、なんだかよく分からないが、いろ葉の様子を見て、ワカバは今のいろ葉で役に立つことを考えた方が良さそうだという結論に至った。
「……そうだ。図書館のカード作るのに名前を貸して欲しかったの。これから一緒に行って欲しいんだけど、いい?」
こんがらがっている様子のいろ葉にワカバは伝えた。
「……うん、いいよ」
まぁ、いいか。いろ葉がおかしくなることは時々あることだし。ワカバは自分のことを棚に上げてそんなことを思った。
ただ、ワカバが人を嫌いになるということは非常にまれなことでもある。なぜなら、彼女もまた自信なき魔女だから。
だから、ワカバはこの世界でなお迷い続けているのだ。
そして、長い夏休みが終わる。あの小さな小石では、もういろ葉を護ることが難しいかもしれない。
「ありがとう」
だけど、いろ葉がワカバのために何かを考えてくれることは、とても嬉しい。ワカバはおたおたしているいろ葉に微笑みを向けて、感謝を伝えた。




