「ありがとう」と「ごめん」の魔法は難しい……1
人生とは思うようにはいかないものだ。いろ葉の心はずんと沈んでいた。本当は、ワカバを喜ばせたかったのだ。及第点をもらった時は飛び跳ねるほどに心が浮き足立った。点数の書かれた答案用紙を見つめ、胸を躍らせた。待ちきれなくて、帰りの電車の中で父にメールでその事実を伝えた。一呼吸の後「おめでとう。頑張ったね」と返信が返ってきた。
うん、頑張ったんだ、素直に思った。
金曜の夜には「ワカバ、海に行けるよ」の報告が出来ると思っていた。
それなのに父を待ち構えたいろ葉に父が伝えたのは、「おめでとう」だけではなかった。どこか申し訳なさそうに、どこか仕方なさそうに「ごめん」を続けたのだ。
「次の連休には行けるようにするから」
次の連休は、9月。敬老の日。ハッピーマンデーだから、どこかでは連れて行ってくれるのだろう。約束はしたけれど、確かに「行けたらね」と言われていた。それでも、父自身頑張ってくれているのだということも分かっているつもりだった。
忙しいのは分かっていた。新学期の始まる一週間前だ。毎年、体育祭や二学期の授業準備で追われているのも知っていた。だから、いつものいろ葉ならその父の反応が当たり前として受け止められたはずだった。
しかし、一昨日の木曜日、ワカバは泣いて眠ってしまったようなのだ。金曜の朝に涙の線が頬にあったから。もしかしたら、いろ葉が最後まで話を聞いてあげなかったからかもしれない。いろ葉の中にはそんな罪悪感まであった。だから、もう、いつもにまして集中して、合格してやるんだという意気込みで試験を受けた。
頑張ったのに、……。父が悪いわけじゃないのも理解できる。だけど、父が悪い気がする。
ごめんね、ワカバ。私がもっと早くに頑張っておけば良かったんだ。
そんな言葉を脳裏に貼り付けようとするが、上手くいかない。誰かのせいにしたくなる。
ワカバにどう伝えればいいのだろう? 悩んでも先延ばしにしてもどうしようもないことはよく分かっている。事実を伝えるしかないことも、よく分かっている。
「ごめん、ワカバ。海へは行けなくなった」
たった一言が未だに伝えられずにいる。
悲しむんだろうな。やっぱりと思われるんだろうな。そんなことをうだうだ考えているとワカバに会うことにすら拒絶反応が出てきてしまった。
だから、ワカバがいつもよりも図書館に長く居たことをいいことに、ワカバを避けてしまったのだ。
いろ葉はワカバが帰ってくるまでに食事を済ませ、慌てて部屋に引きこもり、ワカバが廊下にいないのを確かめてからお風呂へ向かった。
母曰く、ワカバはとても勉強家。確かにワカバはいろ葉と違ってすぐに何でも覚える。少し斜め上の解釈をすることもあるが、別に他人様に迷惑を掛けるほどのことでもなかろう。それに、ワカバは……。
ワカバが来てから、お母さんもお父さんもなんとなくピリピリしていない。もしかしたら、何か変な力を使ってそんな風にしているのかもしれない。しかし、そんなことはないのだ。ただ、ワカバという存在がいるだけで、彼らに笑顔が戻ってきているのだ。
いろ葉の心はずんと沈んだままだった。何の役にも立たない、きっとこの世の中に必要のない子なのだという思いに押しつぶされてしまいそうだった。
そして、現在。土曜日の朝を迎えた。いろ葉はベッドから出られない。時が経つのを拒否しようと頭から布団を被ってしまったいろ葉は、周囲に紫煙が蠢いていることに気づかない。そして、その紫煙が囁いていることに気づかない。
『うまくいかないの?』『じゃあ、こんな世界いらないってこと?』『消してしまってもいい?』
だって、この世界を憎む人多いじゃない。この世界で満足して生きようとする人ってどのくらいいるの? この世界を護ろうとする人って、どれくらいいるの?
消し去りましょうよ、こんな世界。いらないんでしょ?
私にはあなたが必要なの……。あなたが願ってくれるのならば、叶えてあげましょう。
あなたにはその力があるんだから。
今のいろ葉にとって、その声は聞き心地の良い響きを秘めていた。
「いろ葉? 起きてる?」
穏やかな朝にまさしくふさわしい澄んだその声が、いろ葉の周りにあった紫煙を掻き消した。
「う、うん」
ゆっくりと起き上がったいろ葉には窓からの柔らかな朝日が降り注ぐ。どうしようという気持ちはまだあった。ぶわっと広がるまだ寝起きの髪を押さえつけ、仕方がない、観念しようと思った。いくら時間を稼ごうと、ワカバといろ葉は今ひとつ屋根の下なのだ。嫌でも顔を合わせるし、嫌でも……こうなる。
開かない扉をもう一度見つめ、ベッドから足を下ろす。「おはよう」とだけ、聞こえるかもしれない声で挨拶をする。ワカバには聞こえなかったのか、返事はなかった。いろ葉はゆっくりと扉へ近づく。扉を隔ててワカバはいるはず。
「あのね、ワカバ……」
あのね、ワカバ。海へは行けなくなったんだ。
「本当にごめん」
楽しみにしてたと思うんだけど……。
「お父さんが都合つかなくなったんだって」
本当にごめん。
いろ葉は自分でどこまで声としてその言葉を発しているのか分からなかった。ただ、喉に引っかかっている言葉を押し出すように、声にする。
くすんだいろ葉の言葉はポツポツと紡がれて、途切れては繋がれていく。
「うん…………」
どんな表情を浮かべているんだろう。
静かに扉を開くと、その隙間からにっこり笑うワカバが見えた。少し身をかがめていたいろ葉の頭上に、ワカバが微笑んでいる。
「合格したんでしょ? それってすごいことなんでしょ? 合格するってこともいろ葉が行きたい場所の一つだったんでしょ? ご飯食べて、あ、オレンジジュースちゃんといろ葉の分もあるから。えっと、どこ行く? いろ葉はどこ行きたい? 夏休みって、子どもはいっぱい遊ぶんでしょ? えっと、麦わら帽子を被ったり、カブトムシを捕ったり、イベント?とかに行ったり、美味しい物を食べたり……おばけを探したりして思い出を作るんだよね」
ワカバはそこで言葉を一度止めて、扉の隙間から覗くのを止めた。
「だから、一緒に遊びにいこうよ」
どこから仕入れたか分からない情報を矢継ぎ早に繰り出したワカバに引っ張られ、いろ葉はそのままその調子に乗せられてしまったのだ。いろ葉は見えなくなったワカバに返事をするために扉を完全に開いた。
ワカバがやっぱりにっこりと立っていた。
「えっと……。じゃあ、ひとつ向こうの郡山駅前のショッピングモールまで行って……」
たったそれだけのいろ葉の言葉に目を輝かせるワカバに、いろ葉はなんとなくほだされてしまっていた。たったそれだけのことなのに、こんなにも喜べるなんて。
いろ葉の存在意義がそこにあるかのようにして、言葉を追加する。
「電車にも乗って」
そうだ、ワカバはテレビをよく見ている。もっと大きな画面を見せてあげたら……。
「映画も見よう」
ワカバは興味がないかもしれないけれど、有名なアイドルが本格ミステリーに挑戦するという話題の映画が公開されていた。芸能に疎いいろ葉でも「ちょっと見てみたいな」と思えるのだから、もしかしたら、ワカバも面白いと思うかもしれない。
「お母さんに言ってくるね。多分良いって言ってくれると思う」
いろ葉は自室を飛び出し、軽い足音で階段を下りていった。
その背を見送ったワカバがある一点を睨みつけていた。そこはワカバが最初にいろ葉に入れてもらおうとした窓があるだけで、穏やかに鳥の鳴き声が聞こえてくる場所。朝のまだそれほど強くない日差しが差し込んでいる場所だった。
「あなたは一体だれなの?」
ワカバの呟きは静かな日常音の中に吸い込まれた。




