失われたものはなんだろう?……2
学校帰り、いろ葉はとんでもないものを見てしまった。まず、四車線ある大通りを横断歩道も使わずに、とても左右を確かめたとも思えない余裕さで、悠々と渡っていくワカバ。いろ葉が口を覆ったのは確かだ。しかし、何故か車はワカバとタイミングをずらすようにして車が横切っていく。クラクションすら鳴らさない。胸を撫で下ろして、ワカバに駆け寄ろうと……といっても、いろ葉とワカバとの間には結構な距離があり、いろ葉がワカバ風に四車線を渡る気にはなれず、横断歩道を探していると、またまたあり得ないものを見てしまったのだ。
ワカバが、ホームレスと思しきおじさんと話し始めていたのだ。元々ワカバに対する評価として、臆するところのない性格だな、とは思っていたが、いろ葉には到底真似できない。というか、したくない。いや、知らない人とおしゃべりをしたなんて知られたら、両親に心配が掛かるではないか。
うん、ここは無視をしよう。いろ葉はそう決めて踵を返した。触らぬ神に祟りなし、を決め込んで、これは絶対に正しい選択だったと頑固に決めて。一歩一歩力を込めていろ葉は歩いた。その度に、胸が変な方向に引っ張られ、引きずられる思いに至った。心ってやっぱりここにあるんだろうと思わざるを得なかった。そして、玄関の扉を開いた時、胸の奥がやたらと下方へと引っ張られ、息を吐く度に時が止まった。
それでも、自室へ籠り、参考書を開く。今日の補講の復習をする。書き殴られているノートを整理する。自分が呑み込めていなかった所を教科書、参考書で調べ直す。予備校の時間まで二時間しかないのだ。しかし、復習のために開いた参考書、ノートも全く頭に刺激を与えず、景色として視界に入るだけ。何度もトイレに立つし、何度も階段を下りて、冷蔵庫を開けて、やっぱり閉める。菓子鉢の蓋を開けては閉める。喉も乾いていないし、お腹もへっていない。何度か玄関までやって来て、階段を上がる。自室に籠る。
繰り返す。ずっとこの調子だ。ワカバが来てから、いろ葉の心の中は騒がしい。
あぁ、もう。いろ葉は壁の時計を見つめた。どうしてあの時、声を掛けなかったのだろう。
すると、玄関の開く音がした。いろ葉はすぐさま階段を駆け下りていた。
16:11分。いろ葉が目を丸くして、そして、ワカバと出会った時とは違う恐怖を目の前のものに感じていた。それなのに、ワカバはなんの恐怖も見せず、むしろ喜ばしい顔をしていろ葉を見つめる。
「いろ葉、あのね、この人にお仕事見つけてあげたいの」
時は戻り、いろ葉がワカバを見捨てた時間。
いろ葉が去ったあの後、ワカバがそのホームレスに話しかけた。
「こんにちは」
ホームレス、以降『スズキ』はなんといろ葉と同じ名を持つ男であり、ワカバはそれだけで、親近感を持ったのだ。そして、勝手にそのスズキという響きに影が引き寄せられているだけの被害者なのではないか、とまで感じてしまった。
実際の所、まだ40代と年若いスズキが職を辞して、家を持たない生活をするに至るまでには、ワカバにはとうてい信じ得ない出来事があったのだが、そんなことワカバは預かり知らない。そして、スズキはというとそんな頓珍漢なワカバに対して、思わず返事をしたがために巻き込まれてしまった被害者なのだ。
「あの、どうしてそんなに妖魔を集めているんですか?」
頭のおかしい子だと思った。スズキの集めているものは空き缶であり、『ヨウマ』ではない。実際にはヨウマなんていうものを理解したわけではないのだが、スズキはワカバの言葉を頭の中で完全に否定していた。
いや、最近の子どもっていうのは変わっていると聞く。オジサンには分からない言葉をよく喋るし、よく分からない価値観を持っているのだ。どう見ても十代だ。俺と関わっていた若い奴らなんかよりも宇宙人なのかもしれない。
スズキはそんなことを思っていた。
「宇宙人? そうじゃなくて妖魔です」
はっきりとよく分からないところを訂正された。そして、自分が思わず「宇宙人」と口走っていたことに驚いた。独りでいる時間が増えて、独り言が増えてきていたせいだろう、スズキはそんな風に考えた。
それに加えて、この手のものとは関わらない方が良いはずだ。そう思っていると目の前にいる女の子が空を仰いだ。
「これで、真っ直ぐ見られますか?」
何が起きたのか分からなかった。分からないのに、何が起きたのか体中が感じていた。
靄が掛かったようにしか見えてなかった世界がクリアになった。もちろん、加齢からの視力の問題とかではない。ずっしりと頭を押さえつけてくるような、歩けば足を引っ張られるような……倦怠感。
空が拓けたのだと思った。太陽の光を浴びる、当たり前の光が瞳に注がれる。目の前の少女が女神に見えた。
「あなたの願いは?」
彼の目の前には少女がいた。しかし、先ほどとは違い、彼にまっすぐに注がれている新緑色の瞳に気がついた。彼女は『彼』を見ていた。そう『彼』をまっすぐに。からかっているのでもなければ、好奇心からでもない。見た目の年齢差なんて取っ払って、彼女にすがりたいと思った。
戻りたい……。どこまでもずっとずっと……。絶望する前に戻りたい。求められなくてもいい。ただ、光が見たいだけ。
スズキの頬に温かい涙が伝った。
「分かった。手伝ってあげる」
ワカバが静かに微笑んだ。
そして、現在。ダイニングテーブルにはワカバといろ葉が向かい合って座り、ワカバの隣にスズキがいた。ワカバはいろ葉の顔色を窺っては首を傾げ、スズキのすっきりした表情を見てほっと息を吐くのだ。
まるで、結婚を申し込みに来た二人とそれに腕組みするいろ葉という父親という雰囲気がある。
まず、ワカバはいろ葉が怒っている理由が全く分かっていない。何度となく心を読もうかと思い、思い留まり、そして、首を傾げる。いろ葉の言う通り、とりあえず、スズキにはシャワーを浴びさせて体を綺麗にしてもらったし、いろ葉が嫌だというからお風呂はワカバが綺麗に洗ったし、スズキの使ったタオルもちゃんとゴミ箱に捨てた。
「もしかして、お父さんの服貸してもらったから怒ってるの?」
ワカバはタオル事件を思い出して、尋ねる。綺麗に洗えば問題ないはずなのに、どこの誰だか分からない男の人の使ったタオルを万が一使ってしまったら、いろ葉は気持ち悪く思うらしい。その点で言えば、いろ葉の父もそれを嫌だと思うのかもしれない。
しかし、とワカバは思った。
彼はスズキで、すでにどこの誰とも知らない相手ではないのだけれど。
「違うに決まってるでしょっ」
いろ葉は機嫌が悪い。だから、ワカバはいろ葉にスズキのすごいところを教えようと思った。
「あのね、いろ葉、スズキはすごいのよ。だって両手に荷物を抱えて自転車に乗れるし、日本語だって話せるし、毎日朝早くに起きてゴミ拾いしてくれるし、それから、ちゃんと生きてたんだから」
前半はともかくも、最後の一言を聞いたスズキが泣きだしてしまった。おそらく、彼の感じる『ちゃんと生きていた』とワカバの言う『ちゃんと生きていた』は違う。
いや、大義では同じなのかもしれない。だが、ずれているのは確かだ。
ワカバの言う生きていたは言葉通り『ちゃんと生きていた』なのだ。『活きていた』でも『死んでなかった』でもない。
『スズキ』というモノが失われていなかった、という表現が一番近いのかもしれない。
そして、感傷に浸ってしまったスズキが洟をすすりながら、いろ葉に声を掛けた。
「お嬢ちゃんごめんね。本当に。驚かせてしまって、迷惑かけてしまって。でも、おじさんこの子に言われた通り、ちゃんと生きたいんだ」
大の大人に泣かれて、生きたいんだと懇願されたいろ葉に拒絶の選択肢は選べなかった。
「わかりました。でも、ちょっと待っててください。私、この子と話があるんです」
不機嫌な声を出した後、いろ葉に睨めつけられたワカバは、また一人で慌てて困惑していた。ワカバにはどうしてもいろ葉の怒りの意味がわからないのだ。
もちろん、いろ葉がワカバの身を案じて、勉強に手をつけることもできず、心ざわめかせていたことなんて、ワカバは露も感じていない。
後にスズキはホームレスのための生活講座というセミナーを開き、生活困難者のための施設を建てることになる。そして、自分の背広に身を包み、クリーニングされた背広をいろ葉宅に菓子折付きで返しに来るのだが、それはまだまだ先の話であり、ワカバには全く関係のないことなのだ。
以前仰ってくださっていた過去作の概要である設定資料集をアップしております。
https://ncode.syosetu.com/n3150hf/「Ephemeralシリーズの設定資料集」
キラとワカバの記述を含めいろいろ訂正を入れています。




