良くないことは良くない。魔女は魔女であり神様ではない……2
『100%搾りたて』と側面に大きく打ち出されたパックジュースを吸いながら、いろ葉は思った。
これも十分に甘いけど。
いろ葉はまだワカバのあの感動に疑いを感じていた。
あの瓶詰めポンのミカンジュースなら、話は違うか。あれは確かに本気のミカンの味がする。いや、もしかしたら本当にとってもお嬢様で毎朝搾りたてのミカンジュースを持った執事がいるようなお家に暮らしていて、お母様とか呼んでいるようなお家の……。
世間知らずは、異世界からの訪問者だけとは限らない。
そう、まだ、どこかでワカバがミカンジュースを知らない世界から来たとは信じたくないのだ。
人の記憶をいじるような、そんな危険人物と一緒にいると思いたくない、というものに加え、ワカバがいろ葉と同じような女の子であって欲しいと願っているのだ。
昼休み、百円のクリームパンと九十円のパックジュースを購買で選んだいろ葉は、中庭で一人それを食していた。一人で食べる理由として、トイレの個室で食べる人もいるらしいが、衛生的に何となく。いろ葉はほとんどの者が来ないB校舎中庭で昼食を摂るのだ。
中庭は静かだった。ほとんどの者が時間を惜しんで教室で昼食を摂るのだから、ここは静かで当たり前なのだ。それでも、時折りスズメの声が風に流されていき、特進コースではないコースの子達の部活の声がこだまして聞こえてくるのだ。
あっちのコースに行けばよかったのかな。いろ葉はぼんやりと考える。一年生の時は受験した点数によりクラス分けがなされていた。内部進学の子達も試験を受けてこっちのコースへとやって来たのだ。二年生になって、コース選択があった。しかし、いろ葉にはその普通のコースにいる、さらに言えば、出来上がっているだろう友達関係の中に入っていくだけのスキルはなかった。
簡単に言えば、意気地なしだったのだ。だから、あの時の選択が間違っていて、後悔しているのかといえば、そうではない。何に後悔しているのか、と問われれば、いろ葉という者がこの世に生を享けてしまったことに対してなのだ。そして、それについてもいろ葉が何かできるという次元のものでもない。
かといって、自殺をすることもできない。死んでしまえば楽になるのかな、とか、誰が泣くのだろう、とか、父母くらいは泣くだろうな、とかは考える。死んだ後ってやっぱりあの世ってあるのかな、とかも考えるが、自殺を選んだ時点で地獄だろうな、とか。この世でも生きていくことを放棄してしまうくらい弱いのだ。きっと、地獄なんて耐えられないだろうな、とか。
いろ葉はぼんやりと空を見上げた。ふわふわの雲が雄大に流れていく。ちっぽけだな、と自分の足元を見たいろ葉は、その足元から伸びる自分の影を見つめた。昼時の影は短い。足元に広がる影の水溜まりだ。その池を見つめていると、水溜まりの中から何かが囁かれた。それは、いろ葉の脳に染み入るようにして響いてきた。
いいんじゃないだろうか。きっと死んだ先は消滅なんだから。
いいんじゃないだろうか。これから未来にどれだけいろ葉が誰かに迷惑をかけるか分からないし。
いいんじゃないだろうか。今までだって何の役にも立っていないのだから。
…………。いろ葉は思った。
きっとどこにいても、変わらない。
いいんじゃないだろうか……別にこの世界から消えてしまっても。
「熱っ」
火の中に手を突っ込んだような痛みで、いろ葉が影から目を離した。
「……」
そして、意識を現実へと向ける。手にはオレンジジュース。もう片方の手には手提げビニール袋に入れてあるクリームパンのゴミ。空にはあの雄大な雲。いろ葉は恐る恐るスカートのポケットを探る。摘み上げたそれはもう熱を帯びていなかった。ゆっくりと掌に転がしたそれは、単なる『石』だった。勝手に熱くなるような代物でもなく、石特有の冷たさを内部に秘めている。
いろ葉はその石を掌に包んだ。ひんやりとした感触。それはどこかいろ葉のクラスの中に含まれている冷気によく似ていた。
ワカバは壁に背を預けていた。昔、弱いワカバと一緒に旅をしていたキラが言っていたのだ。とりあえず、壁を背に前だけ見てろ、と。もちろん、それは、前方からワカバを狙う奴らをキラが一掃するということが前提でのことで、足手まといになるだろうワカバがせめて後ろから狙われないようにするための戦法だったが、ワカバはそれに気付いていない。だから、ワカバは忠実に背中を壁に預けながら、ゆっくりとリビングダイニングへと体を滑り込ませたのだ。そして、肩に何かが当たった。
かちっ
という音と同時に部屋の中が明るくなった。そして、その明るさに驚いた二人は目を丸くして、互いの視線の先にある不審者に声を上げた。
「やばっ」
黒いパーカーの男の声が昼下がりの部屋の中で、無暗に大きく響いた。
「どうやったの?」
素っ頓狂なワカバの質問なんて無視した黒いパーカーのフードを目深に被った白い紙マスク男が、慌ててワカバの横をすり抜けて走り去ろうとした。もし、彼がもう少し観察力のある人物だったのなら、この場におかしな言葉を吐いている、場違いに目をキラキラさせているワカバの異常さに気付いたのだろうが、残念ながら彼はそこまで頭のまわる空き巣ではなかった。
空き巣は思ったのだ。十代前半だろう少女なら、自分に怖がって動かないだろうと。もし、何かあったとしても振り切れるだろうと。
しかし、その考えは絶対的に甘かった。何と言っても、ワカバは正真正銘の魔女であり、誰の教育が良かったのか、物事の善悪というものを信じており、知らないことは尋ねるべきだと思い込んでいるからだ。だから、ワカバは、その走り込んできた男が泥棒であり、いろ葉の家の物を置いて行かずに出て行くということに納得いかないことになる。そして、彼はまだワカバの「どうやったの?」に答えていない。
ちなみに、ワカバは千に届くかという年月は生きているが、その姿は十六歳で止まっている。何を間違えても十代前半ではないのだ。誤解は解いておかなければ……、と彼女は彼の前に立ちはだかる。そして、咄嗟に危険を察知した。空き巣がタックルを決めようと構えたのだ。だから、ワカバはすっと彼の足にしがみ付いたのだ。
「逃げるのは、よくないと思うの」
と同時に躓く空き巣。床に顔面強打をした空き巣は、悲痛を上げながら、足に絡み付くものを蹴落とそうと自由な方の足に力を込めた。ワカバは次を予測し、彼のまだ自由な方の足がワカバの顔に埋め込まれるのを防ぐようにして、手を離し、わずかに距離をとる。
天地逆転。
ワカバの視線が彼に突き刺さると、空き巣はそのまま天井に叩きつけられて、その拍子に彼の片腕に背負われていたやはり黒のリュックが床にずしゃりとおちてきた。その後、空き巣はシーリングライトのように天井に張り付けられて、ワカバがその上に静かに着座した。
「た…た…」
彼を踏みつけながらのワカバはコウモリみたいに立ち上がり、すとんと自分だけ床に着地した。
「た…助けて」
悪魔のようにただその様子を見守るワカバは、彼のことなどほとんど何も考えていなかった。ワカバが考えていることは、相変わらず、どうしよう、なのだ。
単なる人間の彼にもう数えるのもめんどくさくなるくらいの年齢だということをどうすれば伝えることが出来るのだろうか。『魔女です』と伝えて、大丈夫だろうか。怖がらないだろうか。等々。最早、彼にはどうでもよいことばかりを巡らせていた。それから数秒後、顔面強打をしている彼の鼻血がマスクを染めて、その血が床に花火の模様を広げるまで、ワカバは彼がそこにいるという事実すら見えていなかった。
「お願いします……助けて下さい」
もう一粒。床に赤い花を咲かせる。空き巣はワカバに言葉を伝えることを半ば諦めかけていた。何だか得体の知れない力に超常的な力を感ぜずにはいられなかった。重力が反転しているかのように、天井に縫い付けられている。もうこれは、現実ではない。悪夢だ。彼の頭の中では、ここに広がる今はとうてい整理出来かねた。本当は脳震盪を起こしかけている。だから、祈った。
「もう、二度と……しません。改心します……あぁ、もう神様……どうか、俺を許してください。本当に二度と悪いことはしません。罪も償います」
しかし、空き巣の『神さま』という言葉に解決の糸口を見つけたワカバは、やっとにこりと微笑んだ。
「あのぅ、わたし神さまじゃなくて、魔女なんです。だから、十代前半じゃなくて、もっと長い時の中を生きていて……えっと…あっ……大丈夫ですか?」
そして、意識を空き巣へ向けたワカバはやっと空き巣の彼の異常に気が付いたのだ。白かったマスクは真っ赤に染まり、目は白目になっている。彼のまわりの重力は反転させたのだが、彼自身の重力はめんどくさくて変えていなかったのだ。だが、気付いたはいいが、少しばかり遅かった。たしか、魔女の拷問に逆さづりもあったはず。ということは、人間にとって危険な行為なのだ。
「わっ、すみません、すぐに下ろしますっ」
ワカバが慌てた頃、彼は全く慌てていなかった。これは、悪夢なんだ。きっと、夢を見ているに違いないんだ。目が覚めれば、きっと、あの臭い布団の上なんだ。そうだ、目が覚めたら布団を干そう。きっと、布団が臭いから悪夢を見たんだ。
そして、本当に出頭しよう。
いろ葉は嫌な予感を覚えて、玄関の靴脱ぎで固まっていた。どうして、リビングの電気がついたり消えたりしているのだろう。そして、いろ葉の気配に気付いたその嫌な予感の張本人が「おかえりーっ」とその曰くつきのリビングから飛び出してきた。
「ただいま」
「あのね、すごいね、指一本で明るくなるのっ」
いろ葉は何だか悲しい気持ちになりながら「うん」とだけ答えていた。
「いろ葉、疲れてる? 自転車、大丈夫?」
心は読んでなさそうでも、何故か表情を読み取るのだけが上手いワカバが、心配そうにいろ葉を覗き込んでいた。
「あのっ、わたし、何かいろ葉を傷付けることした?」
しゅんとする姿は子犬のようだ。そして、子犬を喜ばせる方法をいろ葉はよく知っていた。
「ううん、大丈夫」
仕方がない。別に悪い子ではなさそうだし。ちょっと、残念なだけで。
「あのね、ワカバさん。あなたのこと考えたんだけどね、留学生でホームステイしてるってことにしておく?」
いつかいなくなるかもしれないお友達。そんな相手なのだから。そのくらいの距離がいい。そして、「さん」というのも他人行儀だ。
「よろしくね……ワカバ……ちゃん」
シッポがあれば、ぶんぶん振っているだろうワカバはいろ葉の突き出した掌をぎゅうっと握りしめた。
「うん、よろしくお願いします。いろ葉」
にっこり笑ったワカバにいろ葉もはにかむ。ワカバがいろ葉と呼ぶのなら、いろ葉も『ワカバ』と呼んでもいいのだろうか?
「ちょっと待ってて、……ワカバ。着替えたら、自転車付き合うから」
この日、ご近所を騒がせていた空き巣犯が一人、交番へと出頭した。その様子を巡査がこう語った。
「『おまわりさん、どうか助けて下さい』って出頭する奴、初めてだよ」
漫画みたいな話だよな……そんなことを同僚に話していた。




