良くないことは良くない。魔女は魔女であり神様ではない……1
ワカバは言われた通りに、『留守番』というものをしていた。この家から出ない、と言う約束を守りさえすれば、いろ葉が自転車の乗り方を教えてくれるのだ。だから、大人しく、いろ葉の部屋でじっとしていたのだ。それに、いろ葉の部屋にはたくさんの本があり、どれも目新しいものばかりだった。だから、ワカバは退屈なんてする暇もなく、次から次へと本を手に取り、明るい窓辺の下と本棚との往復を何度もし、それらを読み漁っていたのだ。そのお陰で、この世界の歴史なども少し分かるようになった。興味があったのは『世界史』と書かれている本に『魔女狩り』が載っていたことだ。おおよそのことはリディアスでも行われていた。だから、ワカバはこう思う。きっとこの辺りで分岐点があったのだろう、と。
とりあえず、勉強家の彼女はこの世界で使われている日本語と英語も読めるようになり、何となくの大まかなこの世界の歴史も掴んだわけだ。しかし、別の本を取れば、この世界にはまだまだたくさんの言語があるらしい。その点で言えば、ワカバがいた世界にも同じことが言える。ただ、残念なことはここにその言語の本がないということだった。
しかし、それに対しても、まぁ、それはまた必要な時に覚えればいいか、と暢気に構え、彼女はまた別の本を取り出した。
ワカバが面白いと感じたのは、数学や化学とされるものが、リディアスやワインスレーと同じ理論から成り立っていることだった。やっぱり、ラルーが言うように、ワカバのいた世界とここはトーラの有無だけしか変わらないのかもしれない。言語だって複数存在するし、人間の見た目だって変らない。
もしかしたら、こうなっていたかもしれない世界。しかし、交わることもなく、世界すらも違う。だから、呼び名は全部違っていた。分かりやすい例で言えば、星座だろう。この世界ではワカバの知る星のつなぎ方が全く違っていたのだ。あれだけラルーに教えてもらったものなのに、なんだか不思議だった。
いつか、どこかでたくさんの星の見える場所に行くことがあったら、楽しいだろうな。ワカバは天文の教科書をぴらぴら捲りながら、夢想した。
満天の星を繋げる。線の引き方を変えれば、いろいろな形になる。
それはどの世界も変わらない。
それにしても、いろ葉が持っている教科書というものは、なんて面白いのだろう。リディアスにある本は字がほとんどで、時々挿絵、しかも、緻密な線描と言うスタイルの物ばかりだったのだが、いろ葉の持っている教科書、参考書はたくさんの絵が描いてある。しかも、それらがすべて本物と見紛うものばかりなのだ。こんなにすごい絵が描ける人がたくさんいる世界。……。一体どれくらいの時間をかけて、こんなに素晴らしい本を集めたのだろう。
ワカバは一人感動を止めずに、にこにこしていた。
もちろん、ワカバは『写真』というものにまだ出会っていない。そして、ワカバが感動しているその絵が写真というものであることを知らない。ワカバはただ真っ直ぐにその全てが手書きであると信じているのだ。だから、感動もひとしお。
気付けば昼を過ぎていた。ワカバは自分の周りに散らばっている本たちを拾い上げながら、元の場所へ丁寧に戻していく。元通りにするのはお手のものだ。これも、「トーラを紡ぐ練習ですわよ」とラルーはそう言ってよくワカバに片付けをさせていた。
だから、ワカバは元通りになった部屋を見て、満足そうに微笑んだ。
「よし」
これでラルーに褒めてもらえるかな? そんな感じだった。そして、朝飲んだあの100%ではないオレンジジュースをもう一度観察しに行こうとした時に、異変を感じた。
異変は二つあった。一つはここ。もう一つはいろ葉のいるだろう方向から。ワカバは一瞬考えた後、いろ葉の方を放っておくことに決めた。青い石で十分だろうと考えたのだ。
あの青い石はワカバが以前もらったお守りだった。あの時は気づかなかったが、あの石には何の力もなかった。しかし、あの石は「ワカバさんを護ってくれる石」だった。そうだ、確かにお守りだったのだ。力がないのに、そんなことを言われた石だから、いろ葉に持たせてみたのだ。
人間らしい考えとしては、きっとこれらが当てはまる。
信じる者は救われる。
もしくは、
困った時の神頼み。
もちろん、今回はワカバの力を十分に籠めている。形を持たない紫煙や弱小妖魔くらいなら、弾くだろう。これは確実に保証できる。
そして、もう一つの方。それは妖魔ではないようだ。ワカバが耳を貼りつけた扉の向こうから、かちゃ、と音を忍ばせた扉の開閉音が聞こえてきた。
部屋を出て、ワカバが覗き込んだ窓のない階段は、昼間でも薄暗かった。恐る恐る、木製の階段に体重を乗せる。思っていたよりもひんやりとした感覚がワカバの足の裏に伝わり、思わず引っ込めてしまった。木というよりも、鉄に近い温度を感じたのだ。ワカバは首を傾げるが、もう一度意を決して、足を踏み出す。階下には何かいるのだ。なんだろう。やはりワカバは首を傾げる。階下から感じられる気配はいろ葉の家族ではなかった。もちろん、妖魔でもない。
きっと、夜盗の類に違いない。当たりを付けたワカバは、そっとトーラを紡ぎ始めた。今ある全てを元に戻すために。今なき過去を生み出すために。範囲はいろ葉の家の中のみ。
全ての階段を下りきり、今朝あのオレンジジュースを飲んだ場所へとやって来たワカバは、その暗闇の向こうを覗き込んだ。
昼なのに真っ暗なのは、きっといろ葉がいないからだ。この世界の人間はワカバとは違う魔法を使う、という風に、ワカバはこの世界の不思議をワカバなりに解釈していた。だから、ごそごそと動いている影をリビングダイニングの入り口からそっと眺めているワカバは、いろ葉がいないから昼間なのに暗い、と思っていたのだ。実際は北向きの窓一つしかない場所で、電気がついていないだけ、という現実に彼女の思考の方向は向いていない。いろ葉がいた時はちゃんと明るかったのだ。
影はどうやら、確かに人間らしい。しかし、夜盗のような凶悪感はワカバには感じられないのだ。だから、そっと、暗闇に目を凝らして、まるで猫のようにして様子を窺っているだけなのだ。
ワカバの知っている夜盗は、ここに侵入してきた人間とは全く違う。もちろん、人から何かを盗むという点で言えば、同じなのだ。だから、迷っている。
彼はきっと人を喰らうための生き物でもなく、誰かを殺そうと侵入してきた生き物でもない。人の皮を被る悪魔ではない。
そう考えて心を決める。そっとリビングダイニングへと、背後は壁に任せたまま体を滑り込ませた。そして、同時にトーラを解いた。
たかが人間。出来ることは知れている。




