挿話③ 正しさばかりでは生きられない
――体が痺れたように動かない。早く、針を、抜かなけれ、ば……。
頭に霞がかかっていく。薄ぼやけた思考に、何かが染み込む。”あたたかさ”が奪われていく。体が、いや、魂が芯から凍えていくようだ。
「あは、あはははは! やった、やったわ……!!」
髪の長い女の甲高い哄笑が聞こえる。ひどく耳障りだと思う感情が、聞いていて快いという感情に塗りつぶされる。
「先生!?」
「そんな、おれたちをかばって……!」
少女と少年の悲痛な叫びが聞こえる。無事で良かったという安堵が、なぜ生きているのだという憎悪に塗りつぶされる。
「そうでしょうね。そうするしかないものね。無辜の一般市民を、犠牲になんてできないわよねぇ? その判断が、全員を死に至らしめるとしても! 切り捨てられないわよねぇ!! あはははは!!!」
笑い声に導かれるように、足を踏み出す。あちらへ、行かなければ。
「せ、せんせぇー、まって。いっちゃダメだよぉ~っ」
引き留めようと腕を引く華奢な手を、振り払う。わずらわしいあたたかさだ。人に、物に、空気に、あたたかさが満ち満ちていた。そんなおぞましい光景に身震いする。
「――この世界は正しくない」
自分の手で、正さなければ。
「危ないっ!」
髪の短い女が、少女を抱えて地を転がった。遅い。無防備な背中を蹴り――やめろ! なぜか、寸前で勢いを殺してしまった。それでも、女と少女の体は軽々と吹き飛び、壁に衝突する。
「がっ」
「きゃあ!」
少年が吹き飛んでいった三人の名前を呼ぶ。
「さすがお巡りさんねぇ。”死”に感染して縋りつくものが『正義』だなんて。フフ、正義の味方――いいえ、これからは正義の奴隷、かしら」
髪の長い女は隣に立つと、体をすりつけるようにしてしなだれかかってくる。その冷たさが身になじんでいく。
「さあ、この場にいる生きている人間を殺しなさい! そして、あの世とこの世の境界を溶かしつくすのよ!!」
「ごほっ、げほっ……バカなこと言わないで/そうよ、まだ間に合うもの……!」
髪の短い女の口から、女の声とは別に、少女の声が聞こえる。
「いまだ!」
「きゃあ!?」
物陰から飛び出してきた少年と少女が、髪の長い女もろとも自分を突きとばした。とっさに、女を助けなければいけないと思い、彼女の体を抱える。両手が、ふさがった。
「先生、お薬の時間」
倒れた先に、もう一人の少女がいた。口内にピンク色の液体が流し込まれる。
――あつい。
熱い熱い! 喉が焼けてしまう!! 液体を吐き出そうとするが、髪の短い女と少年に抑え込まれて飲み込んでしまった。
「……あの薬は、普通の人間が飲むと媚薬に近しい効能がある」
熱さから逃れようと、のたうち回る自分の耳に、少女の声が響く。
「でも、それは単なる副作用/あの薬の主作用は――」
「”死”を振り払うほどの”生”の衝動を引き出すこと!」
喉をかきむしる。
熱い、熱い熱いあつい……!
「先生! 戻ってきてくれ!!」
髪の長い女は、顔を歪ませて笑う。髪を振り乱しながら絶叫した。
「無駄よ! たとえ”生”の衝動を引き出しても、”意志”が支えなければ意味が無い!! その薬があることは把握していたもの! さらに改良を施した”死”は、相手の”意志”を奪う!!」
「いいえ、いいえいいえ! あの方の”意志”には残っています! ひとかけらでも”意志”が残っているのならば――必ず!!」
髪の短い女が少女の声で叫ぶ。
「彼の心に残る”最も強い意志”を呼び覚ますことができたなら――!」
「先生ーっ!」
少年と少女たちの声が聞こえる。どうにかこの熱さから逃れようと立ち上がる。しかし、身を焦がすほどの熱は、すでに全身に回っていた。
この世界は正しくない。
己こそが正しい。
過ちは正さなければ。
――弟子の下着姿で射精した人間が、どの口で正しさを語る。
「ぐはっ」
罪悪感――直近で感じた”最も強い意志”。正しさから最も近く、最も遠い。悪を成したという”意志”。あまりに強烈な衝撃を受け、膝から崩れ落ちた。
「先生が急に倒れたんだけど!?」
「あれー!?/そんなどうして?!」
「……ぼ、ボクの調合に間違いはない……はず」
あれは、ほんの偶然で。たまたま思い出した時に射精してしまっただけで。決して、彼女自身に劣情を抱いているわけではない。――いや、そんなものただの言い訳だ。弟子で抜いてしまったという苦い事実がそこにある。
「……大丈夫だ」
その苦さが、頭の霞みを打ち払ってくれた。拳を握り締めて立ち上がる。
「終わりにしよう」
弟子に、謝罪は出来ない。してはいけない。自分の体が性的に消費された事実を伝えなければ、謝罪にならないからだ。それは、若い彼女の心をどれだけ傷つけることだろう(※1)。謝ることは大事だが、時として事実は人を傷つける。
償うことのできない、許されることもない、自分の罪。
――この罪は、墓まで持って行こう。
そう固く心に誓った。
※1 もし、弟子に伝えたら。まったく気にしないうえに(お孫さん師範代ってその顔でちゃんと性欲あるんですか!? めっちゃ属性盛ってくる~~!)と興奮する。
◆ お孫さん師範代について
以前にも書いた通り、『巨大人工浮島の学園に臨時教員として任用されている潜入捜査官』。巨大人工浮島に渦巻く陰謀を、極秘に捜査するのが任務。
男性向けエロゲで例えると、主人公たちを導く頼もしいサブキャラ(男)。しかし、こういうキャラは存在自体が死亡フラグなところがある。主人公たちを生かすため、命がけの戦いに挑むことが多いからだ。
◆ 『学園の七不思議』と『研究所』について
巨大人工浮島の学園は、『旧研究所』の跡地であった。『旧研究所』では不老不死の研究――”生”と”死”の研究が行われていた。
ある時、『旧研究所』で、あの世とこの世の境を溶かす事故を起きてしまう。『旧研究所』は壊滅。溢れ出る”死”を抑えるために、”生”に満ちた若者が集まる学園を建てた。しかし、事故の余波であの世が表出しやすくなっており、この世に滲みだしたあの世(あの世に落ちた『旧研究所』)が『学園の七不思議』として噂になっていた。
髪の長い女は『旧研究所』の事故で生き残った研究員であり、事故を起こした張本人。あの世に魅せられている。事故を通して”死”を物質化することに成功。この世の生者をあの世の死者に変質させる薬を開発した。死者に変質した者は、女の言いなりになる。お孫さん師範代が注入された薬。
髪の短い女から聞こえる少女の声は、女の狂気に気がついた『旧研究所』の同僚の幽霊。『学園の七不思議』に紛れて事件の解決に動いていた。髪の短い女の体に居候している。
だいたいこんな感じのフワッとした設定がありました。