1-7
「リナ……、リナ、大丈夫かね?」ラリーの声がした。
リナは夢から覚めるように遠くにその声を聞いた。
「どうしちゃったの、わたし……」
気が付くと、リナは重力コントロール装置を前にして床に倒れていた。
ターシャが朝食を作る手を止め、こちらを見ていた。
けれど特に問題はないと判断したのか、何かを問いかけるようなことはしなかった。
「気を失ったみたいだね」
「気を失う?」
「ああそうさ。意識を失うことだよ」
「眠っていたのね」
「少し違うがね、似たようなものだ」
「夢を見ていたのよ」
「ほう」
「知らない場所に立っていた」
「部屋の中かい?」
「いいえ、違うみたい。見たこともない場所よ」
「興味深いね」
「ええ。見たこともない場所なのに、ちゃんとその場所はどこかにあるのだとわかるわ」
「興味深いね」
「これも、フィグツリーのせいなのかしら」
「そうかも知れないが、そう言うのは初めて聞いたよ」
「初めて?」
「ああ、そうだ。フィグツリーがリナに与えてくれるのは知識だ。記憶ではない。夢は知識ではなく、記憶に依るものが大きい」
「そうなのね」
「けれどフィグツリーが人に与えてくれる知識は膨大だ。その中に誰かが個人的な記憶を忍ばせたとしてもおかしな話ではない。まるで秘密のメッセージを送るように」
「おもしろい仮説だわ」
「空想的な話だよ」
「けれど可能性としてはゼロではない?」
「ゼロではないよ」
「私がその誰かが忍ばせた個人的な記憶を夢として見たわけね」
「そう考える方が素敵だと思わないかい?」
「ええ、そうね。素敵だわ。見知らぬ誰かから、メッセージを受け取ったのね」
「きっとそうさ」
リナはここ数日の間に頭の中に蓄積された言語ナレッジの中を探したが、自分の気持ちをうまく表現する言葉を見つけることができなかった。そしてあきらめ、心に自然に浮かび上がった言葉を口にしてみた。
「少し……、恥ずかしいわ」
「ところで、さあ、人形を見てごらん?」
そう言われてリナは立ち上がり、ベッドの真ん中に浮かぶフランス人形を見た。
「素晴らしいわ……、なんと言っていいかわからない」リナはそう言って息を呑んだ。
その人形は、まるで王子様を待つ白雪姫のように安らかに眠っていた。
呼吸こそないが、移植された皮膚の透明感はまるで赤ん坊のようで、触れるのがためらわれるほど繊細にできていた。皮膚や筋組織は人工的に作られたものであったけれど、限りなく人間に近く作られたもので、時間とともに新陳代謝もすれば、傷を負えば治癒もした。神経細胞も埋め込まれていて、触れられた感覚や痛みを始め、あらゆる触感機能を備えているはずだった。そしてそれらの中には栄養素を運ぶための人工的に作られた血液が流れている。鉄分を含まないため赤くはないが、ヘモグロビンや血小板には人間の血液から採取したもののクローンが使われていた。眉間にはうっすらと細い血管が浮き出ている。頭髪は金色であるのに、長いまつ毛は黒く長かった。
「名前はなんていうのかしら?」
「それはリナがつけていいんじゃないかと思う」
「そうね。けれど私は、何かに名前を付けたことなどないの。何も思いつかないわ」
そんな会話を聞いてか、人形がうっすらと目を開けた。
「まあ、起きたのね?」
瞼の下から現れた眼は、まるで深い海の底から水面を眺めたような深いブルーをしていた。
「素敵な眼だわ。いまラリーとあなたの話をしていたのよ。私の声、聞こえるかしら?」
人形は、ゆっくりと静かに首を動かし、リナへ視線を向けた。
「聞こえるみたいね」
「まだ人工脳が完全じゃないんだ。シナプスの結合が不十分な場所がある。けれどこれから環境に合わせて必要なスイッチがオンになっていく」
「アンドロイドの赤ちゃんってわけね」
「いたってシンプルな言い方をすれば、そう言うことだ」
「いま、あなたの名前を考えていたのよ。私の言うことがわかるかしら」
「理解はしているはずだがね」
「名前よ、名前。どんな名前がいいかしら……」
そして人形は、何度か瞬きを繰り返し、まるで生まれてくる蝶がマユに裂け目を作るようにうっすらと口を開けて言った。
「私は……、ソフィよ……」