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「リナ……、リナ、起きて……。ねえ、目を覚まして」
リナはソフィの声を聞いていたけれど、それはとてもとても遠い場所から聞こえるように思えた。
高く見上げた雲の隙間から、風に乗って聞こえてくるような気がした。
「リナ、リナ、起きるの。起きて? ねえ、目を覚ますのよ!」
青い空に浮かんだ雲は、とても遠い場所にあるはずなのに、なんだかそこに飛んで行けるような気がした。
背中に羽はないけれど、体がどんどんどんどん軽くなって、タンポポの綿毛のように風に吹かれ、山間の上昇気流に流され飛んで行けるような気がした。
「リナ! 早く起きるの! 危ないわ。こっちに気づいてしまう前に」
聞こえるのは風の音だけだった。
温かく、穏やかな空。
風に吹かれて舞い上がるのは、とても気持ちが良かった。
特にこんな、空が青い静かな日には。
「リナ、リナ、さあ起きてちょうだい。夢の時間は終わりなのよ」
意識が夢の世界から切り離された。
その途端、頭が割れそうに痛むのを感じた。
左足も痛い。
痛くて、重い……。
リナは目を開けた。
「さあ、逃げるのよ。立って、リナ」
「どうしたの?」まだうまく目を開けることはできなかったけれど、何とかソフィの言葉を意識の中に拾うことができるようになった。そしてそれと同時にさっきまで何の夢を見ていたのか思い出せなくなった。ただ、とても心地の良い夢だったことは、感覚でわかった。今まで、まるで見たことのない夢だった。ただ、それはもう、思い出すことはできなかった。
「リナ、目を開けてちょうだい。よく見て、ほら。上流に……」
「あれは何?」ソフィの視線の先を見てリナはそう言った。朝靄の中、川の近くに何やら黒くて大きなものがいる。
「クマよ。子供を連れているわ。幸い私たちは風下にいるから、まだ気づかれていない。早く逃げましょう」
「どうして? どうして逃げるの? 私はもう、動きたくないわ……」
「駄目よ、襲われてしまう。あなたの怪我の血の匂いに誘われて、クマの食事にされてしまうわ」
「私たちが……、食べられてしまうの?」
「そういうことよ。さあ、わかったら、立って歩きましょう」
けれどもリナは、もう体のどこにも力を入れることができなかった。
体の疲れや怪我の痛みのせいではなく、リナの意識が、もう体に「立ちなさい、立って歩きなさい」と指示を出すことができなかった。
「ソフィ、私、もう駄目よ……」リナは再び気を失った。
次に目を覚ました時、太陽はもう真上にあった。
木陰にいるせいで暑さは和らいでいたけれど、じっとりと嫌な汗をかいていた。
瞼が熱かった。
熱があるせいだった。
左足が腫れあがり、指先が黒くなっていた。
右耳も相変わらず聞こえず、耳の奥を中心に、相変わらず酷い頭痛がした。
「クマはどこかへ行ったわ。私たちに気づかず」ソフィは言った。
「クマ?」
「ええ。覚えていないの?」
「クマ……、ええ、わからないわ」
「そう。いいわ、もう大丈夫だから」
「水が飲みたいわ」
「そうね、熱が酷いみたい」
リナは這うようにして川べりに進んだ。
水を飲むことしか頭になかった。
木陰は土に覆われていたけれど、川に近づくにつれてまた石の上を進まなければならなかった。
両手で這って進むことはできず、リナは仕方なく立ち上がった。
左足はもう感覚がなく、言うことを聞かなかったが、何とか進むことはできた。
川にたどり着くと、リナは倒れ込むように四つん這いになり、再び川の水を流し込むように飲んだ。
水は冷たく喉を潤した。
流れ込む水が、胃袋へ到達するのを感じた。
頭がほんの少しすっきりした。
「水を飲んだら、ここを移動しましょう」ソフィが言った。
「移動? どこへ行くの?」
「わからないわ。とにかくここにいては危ない。またクマが水を飲みにくる」
「けれどソフィ、私はもう動きたくないのよ」そう言いながらもリナは、何とか川から這い出て、太陽に焼かれた石の上にあおむけに寝た。
太陽は高く、世界の頂点から目に映るものすべてを焼き尽くそうとでもするように照り付けた。
それでもリナは、その暑さが心地よかった。
体の震えが止まったからだ。
太陽の暑さに全身をさらしていると、体から疲れが抜けていくのを感じた。
寝転がった石からも、熱は伝わってきた。
「ねえソフィ、とても気持ちいいわ。私、ここで少し眠りたいの」
「そう。それもいいかも知れないわね」
「ソフィ、怒っているの?」
「怒りはしないわ」
「けれど私、ねえソフィ、部屋を出て、初めて今、なんだかいい気分なのよ」
「ええ、こんな太陽の下で眠ったことはないものね。私もいい気分よ」
「なんだか少し、今まであったことを忘れていられる気がするの」
「まだ旅は始まったばかりよ」
「ええ、ええ、そう。そうね。ターシャは今ごろどうしているかしら。悲しい思いをさせてしまったわ」
「アンドロイドの脳は、それほど複雑にできてはいないわ」
「そう、そうかも知れない。けれど、私あの時わかったのよ。こんなことをするべきではなかったって。ターシャの顔を見たからよ。ターシャは……、その、とても悲しそうな顔をしていた」
「アンドロイドの脳は、ほんのネズミの脳と同じくらいの大きさよ」
「ネズミは悲しんだりしないのかしら」
「ネズミのことは知らないわ」
「じゃあ、きっとアンドロイドのこともわからないわ」
「ええ、そうかも知れないわね」
「ネズミはきっと、悲しいわよ」
「ネズミはどんな時に悲しいのかしら」
「さあ、わからない。どんな時かしら」リナはしばらくその答えを考え込むように黙り込んだ。目を閉じ、眠っているようにも見えた。呼吸は穏やかだった。そしてやがて目を閉じたまま言った。「ネズミは、そうね、夜が悲しいわ」
「夜が、悲しい?」
「ええ。夜が悲しいのよ」
「わからないわ」
「ええ、ええ、そうね……。わからないわ」
「夜は悲しみの対象にはならない」
「そうね、ソフィ……」
「ええ、そうよ。悲しむとすれば、もっと他の理由があるはずよ」
「そうね。きっとターシャは……」リナの言葉はそこで途切れた。
薄く開けた眼からは細く涙が流れていた。
そしてフィグツリーは、リナの最後の鼓動からちょうど一時間後、機能を停止した。
「フレンチ Doll of the 明治 era」
読んでいただきありがとうございます。
こちらは【第一部】として、一旦終了いたします。
また来月から【第二部】を掲載しようと考えておりますので、よろしくお願いいたします。