1-20
部屋の外に出て初めて触れた物は、素足で踏みしめた、冷たく湿気た土だった。
背後で扉が閉まり、警告音も消えた。
それと同時に部屋から吐き出されていた強風も治まり、一瞬で静けさに包まれた。
そしてリナは、一歩も動けなくなった。
闇の中にいた。
部屋の外にいた。
初めて感じる恐怖だった。
絶大な恐怖だった。
恐怖だ。
恐怖だ。
恐怖だ。
純粋な恐怖だ。
逃げ場のない恐怖だ。
得体のしれない恐怖だ。
恐怖を呼吸している。
それは胸の中にある。
恐怖が肺を動かしている。
呼吸の音が聞こえる。
肺を絞り、緩め、絞り、緩め、絞り、緩め、絞り、緩め……。
鼓動が聞こえる。
心臓を握り、放し、握り、放し、握り、放し、握り、放し……。
恐怖に囚われ、思考が中断した。
尿意を催したが、それはうまく意識に伝わらず、失禁した。
一歩も動いてはならない。
気配を悟られてはならない。
ほんの少しでも物音を立てれば、それは静かに走り寄り、リナに襲い掛かってくるはずだった。
身体の感覚を失っていた。
自分の脚で立っている感覚がない。
どうすれば……、どうすれば……、どうすれば……。
部屋に戻りたい、けれど、首を動かして振り返ることすらできない。
駄目だ、戻れないんだ。
もう、もう、もう……。
涙が頬を伝った。
なんてことをしてしまったんだろう……。
「リナ、落ち着いて」ソフィの声だった。
リナは何かにすがるようにその小さな体を抱きしめた。
脚の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
そして声を上げて泣いた。
夜が明けるまで、ソフィの小さな体に顔を埋めていた。
眠った気もするし、一晩中泣いていたような気もした。
夢を見たような気もするし、ただ閉じた瞼の裏側を見つめていただけのような気もした。
「リナ、夜が明けるわ」
リナはその声に顔を上げた。
薄闇の中に、いつもの見慣れた森の風景が浮かび上がっていた。
身体がじっとりと濡れていた。
一晩中泣いたせいかも知れなかった。
少し暑かったので、汗もかいたかも知れない。
漏らした尿の臭いもした。
座り込んだ土からもまた、濡れた感触がした。
朝の濃密な空気もまた、湿気を帯びていた。
酷く喉が渇いた。
けれど、どうやって飲料を手に入れればよいかわからなかった。
手をついた地面から、枯れ葉交じりの土を掴んで目の前に持ってきた。
手の平に乗せた土の中に、蠢く昆虫を見つけてリナは慌ててそれを投げ捨てた。
そして立ち上がり、身体に着いた土を払った。
素足で踏みしめる土の下にも何かがいるかも知れないと想像し、気味が悪かった。
リナは足元を見ながらゆっくりと歩いた。
途中、張り出した木の根に足を取られて躓いたが、抱いたソフィを地面に落とさないよう、片手をついて体重を支えた。その手を見ると、血が滲んでいた。
振り返ると部屋が見えた。
昨日の夜までそこにいた。
もうそこには誰もいなかった。
温かく、清潔な場所だった。
もう戻ることはできない。
戻ることは……、できないのだろうか。
リナはそこからまた動けなくなった。
木の根元にしゃがみこみ、またソフィに顔を埋めて泣いた。
今度は恐怖ではなく、孤独、心細さを感じた。
どれくらいの時間がたったのかわからなかった。
けれど今度は確実に眠っていた。
空を見上げると木々の間に太陽が見えた。
酷く眩しかった。
部屋にいる時は、ガラスの調光があったせいで、太陽はそれほど眩しくはなかった。
けれど今、直接見るそれは、酷く眩しかった。
喉が渇いた。それに空腹だった。
朝食がまだだった。
けれどもう部屋には戻れない。
ジェネレーターに用意された朝食は食べることができない。
ジェネレーターの2994番だ。
リナはふと目を上げた。
部屋に気配を感じたからだ。
部屋からは十メートルほどしか離れていない。
部屋の中にターシャがいた。
動揺しているようだ。
動揺して、何かを探し回っている。
部屋に私がいないからだと思った。
部屋に私がいないから、探し回っているんだ。
そんなとこにはいない……。
私は……、私はここにいるの。
やがてターシャは森の中に座り込むリナを見つけた。
驚いた様子で、ゆっくりと、部屋の壁に歩み寄った。
両手をガラスの壁につき、じっと座り込むリナを見つめた。
その顔は、今にも泣き出しそうなほど悲しく見えた。
アンドロイドは泣くことはない。
目を潤す必要がないから、涙腺を持っていない。
けれど、リナはターシャが泣いているように見えた。
静かに涙を流しているように見えた。
「では、ターシャはいったい、どんな心を持っているのかしら」ソフィに尋ねたそんな無邪気な質問が、今は懐かしく感じられた。
「それは、ターシャにしかわからない」
リナはその答えがとても知りたかった。
今すぐターシャに尋ねてみたかった。
どうしてそうしなかったのだろう。
ターシャは今、きっと涙を流したいに違いない。
そう考えると、リナはターシャの心が乗り移ったように、またとめどなく涙を流した。
悲しかった。
悲しかった。
これがそうなんだ。
これが悲しいってことなんだ。
リナはそれ以上ターシャの顔を見ていられなかった。
自分は酷いことをした。
自分を責める気持ちでいっぱいだった。
リナは立ち上がり、ターシャの視界から逃げるように背中を向け、歩き出した。




