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 リナ……、起きる時間です……。


 リナ……、目を覚まして……。


 リナ……。


 リナ……。


 その計算された声は、暗く深い地下から湧き出す透明な水のようにすっと心に浸み込み、微かなストレスすら感じさせずにリナを眠りから覚まさせた。

「リナ、起きる時間ですよ」

「うん……、おはよう、ターシャ」

「今日の天気は雨です。今はまだ降っていませんが、あと3時間ほどで降り出します。外の気温は32度まで上がり、湿度は70%を超えます」

「そうなの……、ええ、そうね。少し曇っているみたい」リナはガラス張りの部屋から空を眺め、そう言った。

部屋は高さが2メートル20センチ、半径5メートルのドーム型をしていた。壁は全面厚さ5センチの強化ガラスになっていて、周りの景色はもちろん、空も自由に眺めることができた。

そう、眺めることは、自由にできた。


部屋は森の真ん中にあった。

家ではなく、部屋だ。

他の部屋はない。

トイレもキッチンもバスルームもない。

出入口もない。

ただ一つの空間。

丸い空間。

リナはそこに住んでいた。

時々野生の動物が訪れ、ガラス張りのリナの部屋を覗き込んだ。

シカやイタチが多かった。時にはサルもいた。木々の間にリスも現れた。一度だけ、キツネを見たこともある。「あれはホンドギツネと言うものです」とターシャは教えてくれた。

あとは、小鳥たちだ。


リナは生まれた時からこの部屋に、世話係のアンドロイド、ターシャと二人で住んでいた。

子供たちはみんなそうだった。

生まれてすぐ、それぞれの部屋に入れられ、大人になるまでアンドロイドによって育てられる。

朝起こしてくれるのも、食事を作ってくれるのも、動物の名前を教えてくれるのも、ぜんぶターシャだった。

髪は濃いブラウンで肩まであり、瞳は黒だった。これは子供が親しみを持つよう、育てられる子供の人種に似た容貌で作られた。人工皮膚の下には筋肉もあり、細かい表情まで人間そっくりに表現することができた。複雑な思考や知識は主にメモリー回路によるものだったが、培養脳が埋め込まれているため、人で言うところの意識もあった。また時には、データ化された実際の人間の意識をインストールできる凡用性も持ち合わせていた。


2500年代に戦争があった。

その時使われた細菌兵器で、世界の人口の99.9%は死に絶えた。

そして生き残った0.1%の人たちのさらに99%の人たちも、肺を腐らせ一年以内に死ぬ運命にあった。

彼らは肉体をあきらめ、メンテバンクと呼ばれる人の意識をまるまるデータ化してコンピューターに移し替える生き方を選んだ。

けれども。

意識をコンピューターに移し替えた後の肉体に、まったく意識は無かったのか。

腐りゆく肺に痛みを感じる意識はもう残されていなかったのか。

自分を自分と認識する自我もすべて、コンピューターに移ったのか。

それともそれは、置き去りにされたのか。

あるいは細胞が分裂するように、両方に存在したのか。

その議論はされなかった。


椅子に腰かけ、鏡に映る自分をじっと見つめる。

鏡に映った私は、私と同じ動きをする。

私はじっと鏡に映る自分を見つめる。

鏡に映った自分の目の中を覗き込む。

瞬きをしてみる。

瞬きをしてみる。

角度を変え、横顔を確かめる。

角度を変え、横顔を確かめる。

唇を動かしてみる。

唇を動かしてみる。

鏡の中の自分は、従順に私の動きの真似をする。

けれどやがて、鏡の中の自分の動きが、ほんの微かにズレ始める。

右目だけ瞬きをして、目を開ける。

鏡の中の自分が、閉じた右目を開けるタイミングがわずかに遅かったような気がする。

気のせい……、気のせいだ。

右手の人差し指で、唇に触れてみる。

その様子を確かめようと、私は目を唇に向けているのに、鏡の中の私は、じっと私を見つめている。

気のせい……。

口を開けてみる。

鏡の中の私も口を開けるが、どことなく笑っているように見える。

気の……、せい。

やがて、鏡に映った私は、どんどんと大胆になっていき、私の真似をするのに飽きてくる。

私が首を横に振っているのに、鏡の中の私はため息を漏らす。

私は左手で左の頬に触れてみる。

すると鏡の中の私は笑いながら右手で自分の頬を強く引っ叩く。

私はその表情に嫌悪を抱く。

鏡の中の自分が言うことを聞かないことに苛立ちを覚える。

不安に駆られる。

そんな私を見て、鏡の中の私は笑いだす。

細めた目で憐れむように私を見つめながら、歯をむき出して笑う。

鏡に映った自分が自由に動き出す。

私を置き去りにして動き出す。

私は動けずにいるのに、鏡の中の私は踊りだす。

私はまだここにいる……。

動けない。

動けない。

ただじっと、鏡の中の自分を見つめている。

そして私は気づく。

鏡の中にいるのは、私の方だと。

鏡に映っているのは、私の方だと。

そして自由を得た私は、ついに私を置き去りにして鏡の向こうに消えてしまう。

私はまだここにいる……。

私はまだここにいると言うのに……。


移し替えられた意識は本人なのか、それともそれは動き出した鏡の中のもう一人の私なのか。

私はまだここにいるのか。

私はいったいどこにいるのか。

その議論はされなかった。



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