3
考える必要がなかったし、考えたこともなかったのだ。
『まもなく発車します』
軽快なメロディが流れて、列車の扉が閉まる空気音が聞こえた。
窓に映る景色がだんだんと速く流れて過ぎ去っていく。そして、ふわりと空が宙に浮くような感覚の後に、列車は空へと向かう。架線はどんどん高度を上げる。テルミナ駅。広場。大通り。ルゥの歩いた場所はあっという間に小さくなってしまった。
研究所で見ていたときより、も。
ルゥは掌と額、鼻の頭を窓ガラスにくっつけて、外の景色をくまなく見ようとした。
(歌姫の像が――あんなに、小さい)
息を呑んだ。
国の象徴である大型画面を冠した巨像ですら、空からだと掌にすっぽりと収まってしまいそうだ。
「すごい……」
列車は緩やかにカーブを描いて進んでいく。
(もしかして、あれが研究所?)
ひときわ大きな空色の直方体群が視界に入る。それは四方を森に囲まれていた。
国の中心地から離れているのに否が応にも目立っていた。巨大な違和感、という表現がぴったりの箱。あのなかに、国家機密が詰まっている。
――ルゥが16年間閉じこめられてきたもの。世界のすべてだったもの。
(だけど、あんなにちっぽけにも、見える)
(全身がびりびりする)
それは言葉では表すことのできない感覚だった。不快なものではなかった。今まで纏っていた膜がぬるりと剥がれ落ちて、新鮮な空気を取り入れられるような、眠っていた自分が目覚めるのを自らで目撃するような、なんともいえない感情……。
やがて空中列車は緩やかにスピードを落として、駅に停まった。
『××駅、××駅。お降りの方はお忘れ物がないようご注意ください』
何人かが降りて、それよりも少ない人数が乗ってくる。
それを数回繰り返したときに、かっちりとしたタキシード姿で、シルクハットを被った細身の男が二号車に入ってきた。くるりとカールしたちょび髭が特徴的だった。
「お嬢さん、布に虫がついていますよ」
男は紳士然としてルゥが頭に巻いている布に触れた。細長く骨張った指ですくい取られたのは虹色の羽虫だった。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。アクセサリーにするならば、花のような美しいものの方が、お似合いかと思いまして」
紳士が空の左手を握ってくるりと捻りながら開けると、黒くて丸い花飾りが現れた。
「わぁ、すごい!」
ルゥは反射的に感嘆の声をあげた。
「そんなに喜んでいただけるとは光栄です。これは我々の出会いの記念に。よい旅を」
紳士は満足そうに頷いて、花を、ルゥの布に取りつける。そして後方へと歩いていった。
静かな車内は大きく揺れることもなく乗客をどんどん目的地へと運んでいく。
ルゥは瞳を閉じて、わずかな振動に体を委ねた。
(目が醒めたら研究所のベッドの上かもしれない)
今、自らに起きていることが、信じられないのもまた事実。
『次は、終点。最果て博物館』
(あっ。着いた……)
アナウンスに起こされる。
慌てて列車から降りると、ルゥは寒さから自然と身震いした。
終着駅は閑散としていて駅員すらいない。小さなホームは枯れ木に覆われて、足元には小枝や枯れ葉が散乱していた。歩く度に、くしゃりと崩れる音がした。
改札にリングを翳すと、『降車:最果て博物館駅』と浮かび上がる。
木立が空からの光を遮っているので薄暗い。先は獣道だった。
周りに誰もいないことを確認してルゥは頭の布を脱ぎ去る。顔を露わにしたのはエメリーの館以来だった。ふるふると首を振って、大きく息を吐いてから吸いこんだ。冷たい空気が全身に染み渡る。
さらにはフィルムも外して、紅色を取り戻す。
(どうしよう、これ)
男からもらった花飾りをルゥはまじまじと眺めた。椿のような柔らかなかたちの、漆黒。まるで星空のように雫のような結晶が点々とついている。もしかしたらこれはコランダムの涙かもしれない。髪の毛を後ろで結った部分につけることにした。
くしゃ。
くしゃり。
枯れ葉を踏む音だけがルゥの存在を周りに知らせているようだった。
この世界で生きているのはルゥだけだと錯覚してしまうような時間がしばらく続き、獣道から突然視界が開けたのは突然。
ぶわっ、と大きく風が吹き、ルゥの髪の毛が宙に浮く。
「ここが、最果て博物館――」
それは奇妙な見た目をしていた。左右非対称で、規則なくいたるところに窓がある。
廃墟になったホテルを軸として、気ままに増築されたような、気まぐれの結果のようだった。元のホテルは鈍色なのに、継ぎ足された部分は、緑や紫、桃色などで統一性がない。壁も単色で塗られているかと思えば、ドット柄や、目をデザインしたようなイラストがぞんざいに描かれたりしている。個性と個性のぶつかり合いが喧嘩をしているような建築物だ。
手前は広場になっていて、石のような黒くて硬そうな材質でできた人間や動物があちらこちらに転がっている。
あまりにもちぐはぐな光景だった。
(帰りたい……かもしれない)
後ずさろうとしたときだった。
「ようこそ、『最果て博物館』へ」