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ルゥは目の前に広がる光景に呼吸を忘れかけそうになる。
高架を覆う乳白色のチューブ状の建物には大きな文字で『テルミナ駅』と書かれている。見通しをよくするためなのか、ホーム部分は骨組みだけ。ちょうどクリーム色の列車が停まっているのが見えた。
研究所のバルコニーからいつも見あげていた空中列車。
(駅がこんな風に、地上にあるなんて知らなかった……)
手前の広場には人間がたくさんいた。屋台も並んでいてどれも賑わっている。
ルゥは与えられた衣服とリングですっかり普通の人間のように見えた。興奮してその場所へと飛びこむ。
屋台で食べ物を買っている男女。老若男女の集団は、家族だろうか。すたすたとひとりで歩いている人間もいる。
ルゥは視線をあちこちへ泳がせた。
(あの屋台で売っている、まぁるくて、茶色い薄いものに、手早くふわふわの白や艶々の赤をはさんでいるのはなんだろう)
読書が趣味のルゥでも、食物に関する知識はないに等しい。
甘い香りを発する屋台に近づいて行くと、クレープ、と書いてあった。
「すみません、それ、ひとつください」
「どうぞ。400フィンテだよ」
ルゥは柱の読み取り部に恐る恐るリングを翳す。ぴっ、と電子音がして、一瞬リングから空中に数字が浮かび上がった。それがどうやらクレープの金額と、ルゥの持つフィンテの残高らしい。
(できた。買い物、できた!)
クレープを受け取ると、飛び跳ねたくなる高揚感を抑え、周囲を真似して丁寧に周りの紙を破ってからほおばる。
(ふわふわ。甘くて美味しい)
口元についたクリームは指で拭って舐める。紙はごみ箱へ捨てた。
ひとりで列車に乗らなければならない不安はどこかへ消え去り、さらに辺りを観察する余裕が生まれる。
(わたしはどの人間とも違うし、どんな人間も、皆、違うんだ)
研究所ではサファイアとしか接触しなかったルゥにとっては衝撃的だった。多少の個人差はあれ、サファイアはほとんどの性質が同一だ。
しかしここでは、女性だけを見ても、背の高さや容姿はもとより、着ているものすら違う。
(あの子のスカートも、赤と橙でかわいいなぁ。よく見ると花模様も隠れている)
(あっちの子は、青色のグラデーションだ。きれい。結った髪型もふわふわですてき)
年頃の近そうな少女を見ては目が釘づけになる。
(わたしも、あぁなれるかな)
そして突然立ち止まった。
(……あ)
駅の中央口に、ほぼ等身大の透明な歌姫像が立っていた。
左手を高く上げて微笑んでいる姿は、生き生きとしていて今にも歌い出しそうだった。頭には大輪の生花でできた飾りをつけている。
ルゥは慌てて顔に巻いた布をしっかりと締めた。
風船が萎んだように、俯いて、誰にも気づかれないように縮こまった。
駅のなかは迷路のように複雑に入り組んでいた。混み具合も増して、ルゥは人並みに取り残されたように硬直して立ち止まってしまう。
(どうしよう、分からない)
(どうしよう)
しかし声をかけてくる者は誰もいない。
エメリーはいない。騙そうとしてくるチンピラすら、ここにはいない。
雑音の洪水に溺れるようにルゥは立ち尽くす。
「危ないじゃない、こんなところで立ち止まらないでよ」
はっと我に返ると子ども連れの女性がルゥを睨みつけて通りすぎようとしていた。すみません、とルゥは小さく呟く。
「……パパラチアさんのところへ行かなきゃ……」
足取りも覚束ないままに歩き出す。
人の波を必死に追いかけ、捕まえると、流されるように歩いた。低いゲートのようなものを、リングを翳しながら進んでいくのを見て、真似をする。
ぴっ、と音がして、リングに黄色の文字が浮かび上がった。
『乗車:テルミナ駅』
改札を通って駅の構内へと入ってしまった。ルゥはきょろきょろと視線を彷徨わせて、頭上に散らばる矢印を見た。大きさも色も様々な矢印には、行き先らしき地名のようなものが添えられていた。
「あっ、あの! 最果て博物館へはどう行けばいいですか!」
意を決して、穏やかそうな初老の女性へ話しかける。眼鏡の奥で表情を綻ばせた女性は、フィンテリングや構内の黄色い小さな矢印に従って歩いて、辿り着いたホームから列車に乗りなさいと教えてくれた。
よく見れば、フィンテリングからは黄色い矢印が立体的に浮かび上がっている。
(この矢印に従っていけばいいんだ)
女性にお礼を述べて、ようやくルゥは胸をなでおろした。
気を配りながら歩き出す。それでも時々ぶつかって小さく舌打ちはされた。その度にルゥは小さな声で謝るが、舌打ちをした方はルゥに気に留めることはなくすたすたと歩いて行ってしまうのだった。
壁や床にも矢印と同じ色の線が引かれてあった。
矢印が大きくなればなるほど、線が太くなればなるほど、人の流れも多くなるようだった。つまり最果て博物館はあまり人間の行かない場所らしい。
(落ち着いて見れば迷わないようにできてるんだ)
深呼吸を繰り返す。
浮かび上がった矢印は目的地に近づくほど大きくはっきりと映った。従って進み、曲がり、階段を登ると、開けた空間に出た。乗り場に到着したようだった。
チューブの天井が視界に入る。右側には黄色の列車が停まっている。
列車には『最果て博物館行き・特別急行』と表示がある。
ルゥは列車に乗る。
すると、ぴっ、と音がして、リングから『二号車一A席』と文字が浮かび上がった。
(そこに座りなさいということ?)
座席はひとりがけの椅子が横に3席、縦に15席並んでいた。上に表記があったので、ルゥは素直に従った。左が窓、右が通路になっている最前席だ。
「はぁ……」
ちゃんとした居場所を手に入れると、大きな溜息が漏れた。直角の背もたれは決して座り心地がいいとは言えないが、ここにいれば誰かに舌打ちをされることもない。
エメリー曰く、最果て博物館というのは、廃墟になったホテルを利用して世界中の貴重な品々を集めた博物館をしている施設なのだという。かなり奇妙なものばかりで、パパラチアも変わり者のコランダムとして有名らしい。
ルゥには全然想像がつかなかった。
コランダムは瞳の色でその価値が変わってくる。
何故ならば、流した涙が結晶化して宝石となり、高値で取引されるからである。
紅は歌姫の色。最上級のルビー。蒼色はサファイア。その透明度によってランク分けされる。
――では、それ以外の瞳のコランダムは?