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からからから。からからから。
薄墨色の箱の両脇にあるふたつの輪っかが回っている。そこから途切れ途切れにモノクロームの映像が映し出されている。
何本もの大きな柱によって支えられている地下空間。河川から氾濫した水を受け容れる、巨大な放水路だった。
雑音に混じって軽やかな鼻歌が時々聞こえてくる。
やがてひとりの少女の顔が映し出される。顔はぼやけてはっきりと見えない。
『応援していますよ。願えば、どんなことだって叶うんですから』
掠れてはいるものの音声が女性の声を伝える。柔らかく耳に残る音だった。
少女は、機械を操作している人間に向けて話しかけているようだった。
映像を観ている男性は映し出された少女へと手を伸ばす。左手の薬指には細い指輪がはめられている。
しかしそれはただの映像であり、触れることはできない。虚空を掴むと、男性はそのままうずくまった……。
一連の物語は、白い壁に映写されていた。
「面白いか?」
客間に入ってきた狼男はつまらなさそうに問いかけてくる。室内でも狼の毛皮は被ったままだ。
ルゥは椅子の上で両膝を抱えて映像を観ていたが、首を傾げて壁を指差した。
「どうしてこの男のひとは最後に座りこんだんですか?」
「それはお前が人間になれば、いずれ分かるさ」
「そういうものですか」
「あぁ」
映像は再び最初から流れる。ルゥはもう興味を示さない。
「……やはり記憶にないか」
「? 今、何か言いましたか?」
「何も」
ルゥは狼男が住んでいるという館に連れてこられた。それは街の外れにひっそりと建っていた。わざと人目につかないところにある、見ようとしなければ気づけないような館。
まず案内された客間で、ルゥは映像を観させられていた。
「準備ができた」
狼男がテーブルに何かを置く。それは黒色の小箱だった。
「お前にはこれからパパラチアのところへ行ってもらう」
「パ……?」
「蓮の花のような色の瞳を持つ『コランダム』だ。過去と未来のすべてを知る力を持っている。お前はパパラチアに会って、どうすれば人間になれるのか教えを請うといい。しかし奴はとんでもない変人で、ここから遠く離れたところに住んでいる。そこへ行くためには空中列車に乗らなければならない。空中列車に乗るのに必要なものを知っているか」
ルゥにはその質問の意味が分からなかった。
狼男はテーブルに置いた小さな箱から、透明なリングを取り出す。
「金だ」
ひと呼吸置いて、説明をつづける。
「お前も騙されかけた原因。さっき、屋台で売っていたものもそうだが、この国で何かをしようと思うと、必ず金が必要になる」
「金? 通貨?」
「そうだ。この腕輪はお前用だから、常に腕にはめておけ。最低限の金は入れておいた。この国の民は『フィンテリング』と呼ばれるこいつで金銭を管理している。ついでにいうと個人情報も管理されているが、お前の個人情報は適当に捏造しておいたから安心しろ」
(フィンテ……リング? わたしの?)
おそるおそる、ルゥはリングを右腕にはめてみた。
左人差し指で撫でると硬くもなく柔らかくもない素材で、爪を当てるとこつんと乾いた音がした。サイズはあつらえたようにぴったりで、振り回してもずれない。
「軽い」
「『玻璃宮』に近い素材でできているそうだ。自由に使ってかまわないから、パパラチアのところへ行くまでに少しでも人間世界の作法を学んでおくんだな」
ルゥはリングから顔を上げて狼男を見つめた。
「あなたはついてきてくれないんですか?」
「ぼくは忙しいんだ」
狼男はそっぽを向いて、ルゥに視線を合わせようとしない。
「わたしひとりで、パパラチアさんにお会いして、お話ができるんでしょうか……」
「奴はお前が来ることも予見しているだろう。とんでもないもてなしをしてくれるさ」
食い下がったとしても狼男は是と言わないだろう。ルゥの眉毛が下がる。
面倒くさそうに、狼男は溜息を吐き出した。
「……心配なら、エメリーの紹介だと言え」
「エメリー? それは、あなたの名前ですか?」
「そうでもあるが、絶対に呼ぶな。どうしてもというなら、ミィとでも呼べ」
ミィ。ミィ、と小さくルゥは名前を反芻した。
「うるさい。とにかく、パパラチアに会いに行くんだ。奴は『最果て博物館』という奇天烈な館にいる。ただし『鋼玉鑑定士』には気をつけろ。それは、研究所以上に……お前たちの、敵だ」