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狼男とルゥは、通りに戻り、さらに進んで大広場へと向かった。
中央花壇には花が咲き誇り、噴水で子どもたちが遊び、大時計がそれを見守っているようだった。絵に描いたような人々の憩いの場だ。
一角にはたくさんの屋台が集まっていた。傍らにはテーブルや椅子が雑然と置かれている。
突然前を歩いていた狼男が振り返る。
「何が食べたい?」
「な、なにって」
急に話しかけられたこともありルゥには何も思いつかなかった。なにしろ与えられた固形食糧以外、口にしたことがないのだ。
「ちっ。そうだったな」
ルゥが言葉を発する度に返事のように舌打ちする。彼のくせのようだった。
「そこに座って待ってろ。誰かに話しかけられても答えるなよ。無視しろ。分かったな」
言われるまま大人しくルゥは硬くて薄い椅子に腰かける。体も自然と強張って、両膝の上で拳を握った。
周りでは何人かが、見たことのないものを食べたり飲んだりしていた。通りでもそうだったが、様々な強い匂いは食事から発せられているようだった。
「ママの分も食べる?」
「美味しいね」
「そういえばタキシードを新調したよ」
「コンサートホールの座席を確認したら前から二列目だったの」
「えー、いいなぁ」
時々聞こえてくる会話に歌姫の誕生日を祝うために何をしているかの自慢合戦が混じっている。意識して聴かないように努めた。
しばらくすると狼男は両手にたくさんの食べ物を持って戻ってきた。
「食べろ」
しかしルゥには方法が分からない。
それに気づいた狼男は、平らな皿に載せられた、艶々と光る骨付き肉にかぶりついた。口元にどろりとした茶色いソースをつけて、笑みを浮かべる。
「美味いぞ」
恐る恐るルゥは両手で肉を持った。ソースがべたりと指に絡む。口を開けて、狼男の真似をしてほんの少しだけ噛みちぎる。
それは経験したことのない行為だった。
口のなかに広がるうまみと、柔らかい食感。丁寧に咀嚼して飲みこんだ。喉から体の内部へと温かいものが通っていく。
温かいものを食べたのも初めてだった。
どきどきと全身が大きく波打ってくる。
「うま、い?」
「そうだ。それが、美味しいという感情だ。好きなだけ食え」
骨付き肉は、かたくて食べられない骨のぎりぎりまで、噛みついた。最後に指についたソースは舐めてぬぐった。
根菜を炒めたものは、かたいけれどほくほくとしているところもあって、口にすればするほど指先まで温まってくる。さらにとろりとしたスープを飲み干す頃には、食べ物の熱で上気していた。
すべてを、ルゥは興味の赴くままに口にした。
ひとつだけ、顔をしかめたときに狼男が教えてくれた。
「それは、苦い、だ。慣れたら病みつきになる」
そして果実を搾っただけの温かくて甘酸っぱいジュースを飲み干す。
ふたりですべて平らげると、少年は瞳を閉じて、胸の前で両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「ご、ごちそうさまでした」
ルゥは辿々しく狼男の仕草を真似た。
お腹がぱんぱんに膨れたのも初めてだった。
ひと息ついて、ようやく切り出す。
「あ、あの、それで貴方はどうして……」
「かんたんなことだ。ぼくはこの世界を憎んでいる」
狼男は脇に差していた刀を見せた。
装飾の一切ない鞘は彼の瞳と同じ漆黒の光を放っている。
「この国は『コランダム』によって成立している。ルビーが『玻璃宮』を維持するために歌い、サファイアが人間に奉仕する。その涙は宝石として人間たちに好まれる。だけど、考えてみろ。お前も書物で読んだことはあるだろう? 人間が人間を造ることが正当化されたというのは、有史以来初めてのことなんだ。異常なんだ。鋼玉によって支えられている構造は、鋼玉を迫害している。それを、ぼくは覆したい」
一気にまくしたてた狼男は、残っていた果実のジュースを飲み干して、ルゥをしっかりと見据えた。
「お前は人間になることもできるんだ」
ルゥは言葉を飲みこむように、唾を飲みこんだ。
(構造が覆ったら、人間になれる……?)
狼男の主張はルゥには少し難しかったが、その部分だけは魅力的に感じた。
ごーん、ごーん、ごーん、……。
時間を告げる、低くて強い鐘の音が轟く。
いつの間にか空の青は薄くなり一帯は黄昏に包まれていた。ふたりの影も細く長く伸びている。
遠くの女性像に歌姫が映し出されて、歌声が響き渡る。人々はじっと聴き入る。手を合わせて祈る仕草の者もいた。
「16歳の歌姫さまを見られるのもあとわずかだね」
「聖祭楽しみだな」
弾む声が耳に届く。
……それがこの国の正しい景色。
異常だと思う者はいないはずの、光景だ
拳を握りしめずにはいられなかった。
ルゥはそこから弾かれた存在であることも、事実なのだから。
「本物の人間になって、ありふれた人生を送ってみたくないか? 今日、どうだった。興味深いことがたくさんあったんじゃないか? お前は歌姫のなりそこないなんかじゃない。自分の意志で、生きていくことができるんだ」
逆光で翳る狼男の漆黒にルゥの姿がくっきりと映る。
日中、鏡に映っていたルゥは、瞳の色が違うだけでただの人間のようだった。
そちらを選ぶことができると、狼男は誘っているのだ。
「もっと、いろんなことをしてみたいだろう?」
ルゥは、もう一度しっかりと唾を飲みこんだ。
何かを食べたり、行きたい場所へ歩いたり、人間と話したりすること。それは研究所で好きな書物を読むだけの生活よりも遙かに魅力的だと想像できた。
全身が俄に熱を帯びてくる。
「……はい」
いつの間にか夜が訪れていた。
それもまた、ルゥが初めて経験する、世界の闇だった――。