4
それは殆ど知る者のいない、少女に与えられた名前――。歌姫の真名。ルベウス。
少女の心臓の鼓動が密かに跳ね上がる。
(どうして、その名を)
不信感が募る。
(このひとは何者なの)
そんな少女の問いかけすら見透かすように、青年は皮肉混じりの笑みを浮かべた。
「いや、お前は片方だけがルビーだから、ルベウスのなりそこないだな。……今の歌姫もそうだが。名乗るには危ないしカタすぎる。他人に名を訊かれたらルゥと名乗れ」
「ルゥ……」
少女は名前を反芻した。
「ルゥ。ルゥ。わたしの名前?」
不信感は一瞬にして消え去っていた。
名前。それはまるで自分に与えられたギフト。
きらきらと舞い降りた。街へ降りろ、と言われたこと以上に胸が弾んだ。歌姫の姉君、という乾いた響きを捨て去ることができるだなんて! この狼の毛皮を被った男に従えばもっといいことがあるにちがいない。そう、考えた。
――そして少女はこの世に誕生して初めて、研究所の外へ出たのだ。
◆
舗装された石畳。その道の両脇に立ち並ぶ露店。行き交う人々。
眩しすぎて目を細めてしまうのは初めて見るものばかりだからだろうか。それとも、白以外に囲まれたことがなかったからだろうか。
(きっとその両方だ)
『玻璃宮』の下、穏やかな光が世界を満たしていた。
激しい気象変化を避けるために開発設置された全天候対応型のドームだ。天候は細かく調整されているおかげで年中過ごしやすいのだという。『玻璃宮』と『空中列車』は、『コランダム』研究によって生み出された二大研究成果。
かつてルゥが読んだ歴史書に、そう載っていた。
(空気が澄んでいる。研究所の濁った空気とはちがう)
深呼吸すら楽しくなっていた。
緩やかな坂を下る。初めて靴を履いたことで、石畳とはいえ、足取りも軽い。
(地面ってこんな柔らかいんだ!)
研究所では常に裸足でいたのだ。地面を踏み、蹴りあげる感触はあまりにも新鮮だった。踊り出したくなるのをぐっと堪える。
時々人間にぶつかりそうになりながら歩いていく。すれ違う女性のほとんどが、ルゥと同じような恰好をしていた。
露店の主人が声を張り上げている。笑い声が時々混ざり、誰もが愉快そうだった。嗅いだことのない香りが次々とルゥめがけてやってくる。
ルゥの呼吸は自然と荒くなっていた。
そして不意に立ち止まる。ひとつの露店の先に、小さな鏡が置いてあったのだ。布でぐるぐる巻きにされた自らの顔をルゥは凝視する。
(右の瞳が、黒い!)
狼男がルゥの瞳に貼ったフィルムレンズのおかげで、紅は見事に黒くなっていた。
よく知っているはずの自らの顔が、まるで違う誰かのものに見えた。
(まるで、普通の人間みたい!)
それだけでルゥは、改めて彼に感謝したくてたまらなくなる。
じっと鏡を見続けていると、こほん、と咳払いが聞こえた。
ルゥは顔を上げる。視線が合ったのは、商品の奥に立っている露店の主人だった。
「お嬢さん。この首飾りはどうだい?」
小太りの中年男性が、ぷくぷくとした掌で持っていた首飾りを突き出してくる。
「あっ、はい」
渡されたのは、中央に紅と橙色の混じった小さな丸い花が連なっている首飾りだ。花の両脇には雫のような光る石がついていて、そこからは鎖になっている。
「首からかけてみな。そうそう、お似合いだよ。歌姫さまの誕生聖祭にどうだい」
「はぁ……」
黒いベストの上で、花はきらきらと輝いている。
戸惑うルゥに、主人は右手の人差し指と中指を立ててにやりと笑ってきた。
「二千フィンテだよ」
「フィンテ?」
首を傾げたルゥに、店主は一瞬で訝しげな表情をする。
「はぁ? なんだよ、金が足りないなら返しておくれ!」
首飾りはあっという間に奪われ睨まれた。まさに掌を返すような態度。
「す、すみません……」
慌ててルゥは露店から離れた。
(書物で見たことがある。フィンテ、通貨。なにかの対価として与えられて、逆になにかを求めるときに用いるって書いてあった)
首飾りの露店が見えない位置まで歩くと、ルゥは改めて露店を見回す。
(そうか、それがないと何もできないのか)
売っているものは店ごとに異なっていた。しかし国の主要な産業である花の加工をメインに取り扱っている店が多い。
服飾系の露店には『歌姫さまの誕生聖祭にぜひ!』と謳い文句が掲げられている。花でできた装飾品や、そこからつくった香水を扱っている店。ルゥが書物ですら見たことがないものもたくさんある。もしかしたら歌姫の誕生日にあわせて特別に営んでいる店もあるのかもしれない。
(誕生聖祭……。歌姫が17歳になるのを国民は歓迎しているんだ)
一度気づいてしまうとじっくり見るのははばかられた、
(サファイアの言っていたことは事実なんだ)
途端に国民が自らの死を歓迎しているような気分になってしまう。
……実際には、ルゥの存在は世の中に知られていないというのに。
(どうせわたしなんか)
ルゥは歩くのを止めた。
人々のやりとりだけを観察していると、どの客も腕につけた透明なリングを店主に向けてから品物を受け取っているようだった。
さらに肩を落とす。そんなものはこれまで必要ではなかったから、考えたこともなかったのだ。
(きっと、あれがフィンテなんだ)
俯いていると、ルゥに近づいてくる男たちがいた。
「お金が足りないのかい?」
突然声をかけられ、驚いてびくっと肩をすくめる。
恐る恐る振り向くと、背の高い男と低い男の二人組がにやにやと笑っていた。どちらも前髪をぺたりと後ろに撫でつけていて、できものだらけの額を露わにしている。ぼさぼさの眉毛がお揃いだ。
背の高い男が言う。
「お金、あげようか?」
「え。いいんです……か……」
「困っている子は放っておけないからね。それが可愛い子ならなおさらだ。兄貴は優しいから、君を見て声をかけようと言ってくれたんだ。ついておいで。お金をあげよう」
兄貴と呼ばれた背の低い男が両腕を組んで神妙な面持ちで頷いた。
「さっきの露店での会話を聞いていたんだ。あれは君によく似合っていたから、あとで買いに行くといいさ」
「歌姫さまの誕生聖祭はとびっきりのおめかしをしないといけないからなぁ」
「うん。弟の言うとおりだ」
ルゥは頷かなかったが、強引に2人は露店から逸れた路地へと誘導する。
(首飾りは要らないけれど、フィンテには興味があるから、いいか)
背の低い男は細い路地をどんどんと進んで行く。ルゥを挟むように背の高い男が後からついてきた。
行き止まりまで来ると、背の低い男は振り向いてルゥを見上げた。
「服を脱いでもらおうか!」
ルゥの瞳が、きょとんと大きく見開かれる。
「抵抗したって無駄だぜ」
背の高い男が後ろから言う。
「はぁ、分かりました」
ルゥはぱちぱち瞬きを繰り返す。躊躇なくするりと黒いベストを脱いで地面に落とした。
「いやいやいや!」
「抵抗しないのかよ!」
ブラウスも脱ごうとするルゥに対して、慌てだしたのは男たちの方だった。
「こいつおかしいぞ!」
「兄貴、落ち着きましょう。これはラッキーですよっ!」
「そ、そうだな!」
そのとき、第四の声が響いた。
「お前ら全員、ばかか」
「へ?」
一瞬のうちに、男たちは地面に倒れ伏した。白目を剥いて気絶している。
ルゥは脱ぐのを止めて、突然現れた狼男を見つめた。右手にある棒で、ルゥを誘導した男たちを攻撃したようだった。棒はよく見れば鞘であり、抜いていない細身の刀だった。
「いや、いちばん愚かなのはお前だ。不用意に他人の前で裸を晒そうとするな!」
鞘で、こつんとルゥの額に触れる。
「普通の人間は他人の前で裸にはならない。そうすることで尊厳を傷つけられることもあるからだ。いいな、わかったか」
「ご、ごめんなさい」
理由をうまく飲みこめないまま、ルゥは頭を下げる。
「早く着直せ」
(もしかして、今、危険なところを助けてもらったんだろうか)
確認すればさらに怒りを買いそうなので、ルゥは言葉も飲みこんだ。
「さぁ、行くぞ」
狼男はルゥの手をとった。彼はやはりひんやりとした、骨ばった手の持ち主だった。
「腹が減っただろう。ちゃんとした飯を食わせてやる」
「あの、このひとたちは」
「放っておけ。こんなチンピラ、どうせもう関わることはないだろう」
狼男は、ふん、と鼻を鳴らした。