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できそこないの歌姫  作者: shinobu | 偲 凪生
第1話 右の歌姫は歌えない
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3


「こちらにて身をお清めください。新しいお召し物はのちほどお持ちいたします」

 案内された『偽海の間』には、広い浴槽だけがあった。

 大人数が一度に入ってもくつろげるようなそれには、大小様々の色彩豊かな花々が浮いている。壁一面には植物をあしらったような彫刻。天井はガラス張りになっていて、空からの光が浴槽に降り注いでいた。明るすぎるくらい、たっぷりと。

 ひとりになった少女はワンピースを脱いで裸になった。

 髪の毛をくるくると頭上で束ねてから、左の爪先をそっと水面につけてみる。

 熱くもなく冷たくもなかった。ほどよいぬるさであることを確かめて、全身を浸す。座ると肩まで浸かる状態になった。

 ほんの少し粘性のある、青みがかった白濁した液体だ。手で掬うととろりとしていた。

 大きく深呼吸すると花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。

(わかっていたけれど、わたしにはほんとうに何もないんだ)

 衝動の後に落胆が待っているように、深呼吸の後には大きな溜息が出た。濡れた手で右の瞼に触れる。自らの存在証明であった、紅色の瞳。

(今まで生かされていたことを不思議に思っていたけれど、この瞳のためだけだった)

 それでなければとうの昔に処分されていた。

(わたしは要らない存在で、いなくなる方が喜ばれる……)

 少女は瞳を閉じて仰向けに浮かぶ。ほどよい浮力で、ぷかぷかと。

(心地いい……。ずっとこうしていたい……)

 そのまま、身が融けてしまうのではないか。いや、融けてしまってもいいか。そんな緩慢な諦念に、少女の心身は支配されつつあった。


 どれだけの時間そうしていただろうか。


 ばしゃっ!


 突然、誰かが乱暴に少女の腕を引き上げた。盛大に飛び散る水飛沫。少女は軽さ故に勢いよく水中から飛び出た。

 どすんっ。

 鈍い音が室内に響き、少女は床に腕と膝をついて転がった。

「い、いた……痛い」

 涙を浮かべながら薄く唇を噛む背中に、やわらかな布が被され視界が薄暗くなる。

「液体を拭け」

 逆らうことを許さない冷たくて硬い、感情を伴わない声。聞いたことのない男の声だ。

「早くしろ。この液体には意志を奪う作用がある。早くしないとただの人形になってしまうぞ。最後まで奴らのいいなりで終わるつもりか?」

 降ってきた声に、少女は布を被ったまま体をこわばらせる。

(意志を……奪う……?)

「奴らも抵抗されずに瞳を摘出してしまいたいんだろうな。どこまで性根が腐った連中なんだか。おい、聞こえているだろう。早く液体を拭きとるんだ」

(まさか、そんな)

 少女の指先は小刻みに震えだす。

 闖入者から告げられた内容が真実という保証はないがありえなくないというのもまた、事実。

 震えつつもなんとか液体を拭い去ると少女は声の主に顔を向ける。

「ふ、拭きました……」

 すると、少女の目の前には全身を黒で包んだ青年が背中を向けて立っていた。

 見たことのない衣服を身に纏い、頭には毛皮を被っているという、奇妙な出で立ち。そんな彼が右手に持っている布の塊をそのまま少女に突き出してくる。

「よし。これに着替えろ」

 渡されたのは、衣服のようなものだった。

「あ、あの」

「お前があの部屋から出る機会をずっと窺っていた。機会は今しかない」

「言っている意味が、分からないのですが……」

 少女は震えながらも問う。

「助けてやると言っている」

 返ってきたのは素っ気ない言葉だった。

「では、どうして後ろを向いているんですか」

「軽率に女の裸を見てはいけないと母に教えられた」

「はぁ」

 少女の生返事に、背をむけたまま青年は舌打ちした。そして聞き取れないくらい小さい声で呟いた。

「……恥という感情が足りないか」

 少女は首を傾げつつも、受け取った衣服を確認する。

 どうやって調達したのか下着も含めた一式が揃っていたが、白いワンピースしか着たことのない少女にとっては、部屋にある書物のなかでしか見たことのないものばかりだった。


 長袖は、真っ白で、丸襟には紅い花の、裾にはレースの刺繍が入っている。その上に黒い袖なしのものを羽織る。黒いけれど見る角度によって光具合が変わるボタンが三つついていて、それを留める。

 スカートのように見えたものはゆったりとしたワイドパンツ。柄は紅色のグラデーションのストライプだ。

 ブラウンの靴下と、同系色のショートブーツをたどたどしく履く。

 この国で、一般的に着られている衣服だ。


 少女は一度髪の毛を解くと、ふたつの三つ編みを結い、くるくると後頭部に巻きつけた。

「着ました」

 すると、青年が振り返ってようやく少女を見た。顎に右手をやって頷く。

「よし」

 正面から見ると、彼は少女よりも少し年齢が上のようだった。

 また、やはり奇妙な姿であることが再確認できた。

(歴史書か何かで見たことがある。これは着流しという恰好だ)


 襟も裾もゆったりと開いた筒状の衣服を、腰まわりで異なる布を巻いて留めている。その筒状部分はただの黒色ではなく濃い鈍色で、青海波模様が連なっている。巻いて留めている帯は藍色で、そこに棒を差している。

 小さな顔にきりりとした太い眉毛は意志の強さを表しているようだった。漆黒の瞳は三白眼。きつくつりあがり、そこからすっと通る鼻筋、小さな唇。どこか厭世観も与えるような顔立ち。

 そして最も異彩を放っているのが、頭に被っている鈍色の狼の毛皮だった。


(へんなひと)

 じろじろと観察してくる少女に顔を歪めつつも、青年は布をさらに一枚差し出した。

「お前はただでさえ目立つから、これも巻くといい」

 青年はボリュームのある白い布をぐるぐると少女の顔中心に巻きつける。決して器用ではない巻き方だった。

 ぶかぶかになった部分は少女が自分で直した。

「最後に、この水晶を瞳に貼りつける。瞳を大きく開け」

 言われるがままに少女は瞳を見開く。

 青年は体が触れそうなくらい少女に近づくと、屈んで顔を覗きこんできだ。

「じっとしてろ」

 彼の指先がそっと瞼に触れる。閉じないように固定される。

(ひんやりする……)

 瞼に感じるのはかすかな体温と小さな鼓動。他人がこんなに近くにいるのははじめてで、直接触れられたのもはじめてのことだった。


 ――神聖な儀式のような、だけど一瞬の触れ合い。


 青年が瞳よりもひとまわり小さなフィルムレンズを、自身が映りこむ少女の瞳にそっと載せる。

「よし。いいぞ」

 ぱちぱちと少女が瞬きを繰り返した。

「色を隠すためのものだ。これで、どこから見ても、お前はただの国民だ」

 決して笑みを浮かべはしないものの、顎に右手をやって、青年は満足そうに頷いた。

(ただの国民? どういうこと?)

「あの、貴方は……」

 一連の展開がまだ理解できずにいる少女は、狼狽えつつも問いかけようとして、遮られる。

「ぼくのことはどうでもいいだろう。お前にはこれから街へ降りてもらう」

「ま、ち?」

 少女は口を開けて、ぽかんと青年を見つめた。言っている意味が理解できなかった。

「本当に、お前は死んだ方がいいのか、その目で確かめてみろ」

 すっと彼の顔から表情が消える。瞳に湛える闇い光が深さを増す。


「右のルベウス・コランダム」

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