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からからから。からからから。
薄墨色の箱の両脇にあるふたつの輪っかが回っている。そこから途切れ途切れにモノクロームの映像が映し出されている。
一度も使われたことのない、巨大な放水路だった。
雑音に混じって軽やかな鼻歌が時々聞こえてくる。
やがてひとりの少女の顔が映し出される。顔はぼやけてはっきりと見えない。
『応援していますよ。願えば、どんなことだって叶うんですから』
掠れてはいるものの音声がその声を伝える。柔らかく耳に残る音だった。
少女は、機械を操作している人間に向けて話しかけているようだった。
映像を観ている男性は映し出された少女へと手を伸ばす。左手の薬指には細い指輪がはめられている。
しかしそれはただの映像であり、触れることはできない。虚空を掴むと、男性はそのままうずくまった……。
(これは……ミィさんの館で観た、フィルムと同じ?)
それは確かに、ルゥの目の前で起きていた。
「……」
男性がルゥの気配に、顔を上げる。
つり目に、すっと通った鼻筋。少し神経質そうなへの字の薄い唇。
立ちあがるとルゥよりも頭ふたつ分背が高い。染みひとつない白衣を着ていた。
彼はルゥと向き合うと、ルゥの全身を目で確かめた。すると、ゆるゆると眉毛が下がり唇が震えはじめる。両手を差しだしてくる。
「生きていてくれたのか……」
「えっ」
彼は問答無用と言わんばかりにルゥを引き寄せて強く抱きしめた。
「よかった……」
柑橘類の香りがルゥの鼻孔をくすぐる。やわらかな抱擁。
そこで、ルゥははじめて認識した。
映写機に映し出される少女の顔が自分と瓜二つであることに。
つまりは、パパラチアの館で目にした、初代ルベウスと同じだということに。
それだけならまだよかった……のだ。
(え?)
さらに気づいてしまって、目を逸らせなくなる。
(なに、この部屋!)
部屋の壁は女性の写真でびっしりと埋め尽くされていた。
「どうやってまた君に会えるか、そればかりだったんだ。今度こそ、私だけの歌姫になってほしい。たくさんの観客なんて君には要らない……」
女性の写真は、大判のポスターであったり、明らかに隠し撮りされたものだったりしたが、個人的なものだと判断できるものは一枚もない。それが。ぎゅうぎゅうと。隙間なく。
ルゥの背筋が粟立つ。
フィルムを観たときの答え合わせとしては、零点だ。
もっと清らかなものだと思っていたのに。
(気味が、悪い……)
その間にも一方的に男性はまくしたてて、ルゥの頬を両手で包みこんだ。
「愛してるよ、歌姫。いや、ジュイエ」
「い、いやっ!」
ルゥは思わず彼を両手で突き飛ばした。
どんっ!
しりもちをついた男は、目を丸くする。涙を流す。両腕を広げて訴える。
「な、なんでだよぉ。私はこんなに君のことを愛しているのに!」
込みあげる不快感に、ルゥは後ずさった。背後に扉があることに気づき、廊下へと出る。
(逃げなきゃ)
どちらに行けばいいかは分からなかったが、右に進む。
廊下の壁にもびっしりと女性の写真。写真。写真。同じ顔の黒い瞳が、ルゥの行き先を監視してくるようだった。
扉、廊下。構造に既視感を覚えて立ち止まった。
(ここは、鋼玉研究……所? だとしたら)
街から戻ってきたときに通った、受付のある中央玄関を目指す。
「あった! ……!」
しかし扉は写真で封鎖されていた。
大きく引き延ばされた写真の、漆黒の双眸がルゥをじっと見据えている。遠くから男性の呻きが聞こえる。
「ジュイエ。ジュイエ、どこだ!」
おそろしかった。捕まりたくはなかった。
(あとは、わたしの部屋のバルコニーなら、もしかして!)
ルゥは自分の部屋を目指す。時には物陰に隠れながら、男性の声をやり過ごしながら。とんでもなく長い時間に感じられた。心臓が飛び出てきそうなくらいの緊張感。
(あった。入れる、わたしの部屋)
ようやく辿り着いて扉をそろりと開けた。
「……!」
そして言葉を失い、立ちつくす。
自分と同じ顔、同じ姿をした女性が、ソファに腰かけていた。
瞳を閉じたまま。真っ白な肌で。真っ白なウェディングドレスを着て。
両手は、だらりと力なく。
ナイフを心臓に突き刺して。
ウェディングドレスの左半分は、あかく染まって。
足元を埋め尽くすように宝石の数々が、散らばって。
「私の研究を素晴らしいと言ってくれたじゃないか。美しく輝く宝石から人間を造り出す。御伽噺だと嗤われてきた私の研究を。だから、君の美しさを永遠に残すために、被験者に選んでやったのに」
廊下の奥から話しかけてくる男の声は、いたって冷静に感じられた。
――つまりそれがこの世界の真実。
――男の見ている、夢。
(パパラチアさんが言っていたことは、ほんとうだった……)
ルゥは、ゆっくりと歩いてきた男と、再び対峙せざるをえなくなる。
少年と青年の狭間のようなあどけなさを残しつつ、瞳だけはぎらぎらと輝いていた。
(つまり……このひとが、『玻璃王』、なんだ)
理解と同時に、言葉が自動的に紡がれる。
「愛でさえ、その逆の感情がなければ認識することができない。他のすべてがなくなれば、愛もまた、存在できない」
かつて誰かが誰かに向けて放った言葉。
「私は違う。君だけの愛で成立している」
「そんなことは不可能です。あなたの狂信的な愛は、一時的には新しい世界を構築するかもしれない。だけど永遠に続きはしません」
ルゥのなかに、ルゥではない記憶がどっと流れこむ。
下流に流れた川の水が、還ってくるように。
「……賭けを、しましょう。あなたとわたし、どちらが正しいか」
それは、人間だった歌姫自身が発した言葉だったのだ。
「そうだ。そう宣言して、君は自らの心臓をナイフでひと突きした」
振り上げたナイフ。断片的な記憶。監禁された歌姫は、自らの誇りを穢すまいとして、自らの命を絶った。
世界の始まりは、ふたりのどちらが正しいかという、賭け。
「わたしは貴方の夢から来た、彼女の模造品です」
はっきりとルゥは理解した。
「人間になりたいと思っていたけれど、わたしの始まりも、人間だったんですね。そして、今だって人間で在りつづけていた……」
心臓の位置に両手を当てる。鼓動を確かめる。
「愛だけでは世界は成立しない。世界は、永遠ではなかった」
だからいつしか歪んでいって、ねじれきったところで、歌姫は『三つ』に分かれた。
ルゥ。歌姫。
そして、エメリー。
「賭けはあなたの負けです。わたしの心を、返してもらいます」
「ジュイエ……」
『玻璃王』は逡巡したのち、両手を腰に当てて、ゆっくりと溜息を吐き出した。
「なるほど。それで君はどうするんだ。君の言うことがすべて正しいとしよう。私が夢から醒めたら、君自身の存在は消滅してしまうんだ。君のいた世界すべてがなかったことになるんだ。それなら、ここで私と生きていく方がいいんじゃないか? 君が歌姫の模造品だとしても、大事にするよ」
最後には両腕を広げて、昂然と胸を張る。
自らの意見が正しいと信じて疑わない様はまるで演説のようだった。歌姫を愛しつづけるという公約を掲げて、ルゥの支持を求めているのだ。
(そこまでして手に入れたいだなんて)
ルゥのなかの『玻璃王』に対する恐怖心はどんどんと小さくなっていく。
彼は、ただの人間なのだ。
歌姫への狂信的な愛情のみで生きている、人間……。
「悪くないだろう? 世界の中心は君だ。君さえいれば、あとはどうでもいい。どうなったっていいんだ!」
ルゥは答えずに瞳を閉じた。息を吐き出して、しっかりと吸いこんで。拳をぎゅっと握って、もう一度、全身で呼吸した。
「いいえ」
ぴし。ぴしぴし。
薄氷の割れるような音がする。
ルゥは真剣な眼差しで、『玻璃王』に焦点を定めた。一歩ずつ前に進み、彼に近づく。
手を取って自らの額に当てた。
「夢から醒めましょう。……一緒に、正しい世界へと還りましょう」




