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何もなかった。
研究所が建っていた場所は、瓦礫の山と化していた。
塀や柵さえも崩れていて、そこにはたくさんの人間がいた。立ち入り禁止のロープを張った奥で救出作業に当たる作業員。運び出される負傷者。彼らの安否を確認しに駆けつけた家族たち。運ばれていく人間が身内だと分かると駆け寄り、何度も何度も名前を呼ぶ。門番のふたりも例外ではなく、頭から血を流して応急処置を受けていた。
「ひどい……」
ルゥは近寄ることもできないまま、胸の前でぎゅっと鋼玉刀を握りしめる。頬を雫が滑り落ちて、結晶となって地面に落ちた。
(ロージも、お姉さんが亡くなったときに泣いたんだろうか)
そして、記憶が壊れてしまった、彼の母親のことも思い出す。
愛を歌い、悲しみに沈んでいた。歌姫の加護を願うと穏やかに微笑んでくれた。
(欲望のままにコランダムをお金で集めるのと、家族の安否が心配でたまらないのと、どうしてどちらも人間なんだろうか)
ルゥには理解できなかった。それは、あまりにも極端すぎるのだ。
(でも、わたしとミィさんだって、同じコランダムなのに考え方は違う。パパラチアさんも。妹とだって、違う……)
『人間とアタシたちの違いは何だと思う?』
パパラチアの言葉が脳裏をよぎった。
「……わかりません。パパラチアさん、わたしには、その問いかけにふさわしい答えを見つけることができません」
ルゥは空を見上げる。
徐々に、空を黒くて分厚い雲が覆っていく。世界がゆっくりと明度と彩度を落としはじめる。空気も、湿度を含み重たくなっていく。ぽつ、ぽつと雨が乾いた世界を濡らし、洗い流そうとする。
「これは……雨?」
雫はどんどん降ってきて、ルゥを濡らしていく。書物でしか見たことのない自然現象だった。
(世界も……泣いている……?)
顔を空に向けたまま雨を浴びる。
この世界はルベウスのためにある。
人間がそれを裏切った罰がこの惨状だとしたら――。
「だとしたらわたしは、この世界を救いたい。ひどい人間もたしかにたくさんいるけれど、優しい人間だっている。大切なひとを喪ったら、誰だって哀しみに暮れる。そんな哀しみのなかにいるひとたちに、わたしは手を差し伸べたい!」
ルゥは天に向かって宣言する。
呼応するかのように、鋼玉刀の鞘から光が零れだした。紅色の泡のように、きらきらととめどなく溢れてくる。
『……さま』
鋼玉刀がまるでルゥに鞘を抜けと促しているようだった。
『お姉さま』
(これは、妹の声……?)
ためらうことなく鞘から刀を抜く。純度の高い真紅が辺り一帯を照らす。
刀身にルゥの顔が映ったときに、唇だけが勝手に動いた。
『歌ってください。お姉さま』
ルゥの音であっても、声ではなかった。
(妹……? わたしのなかでまだ生きている……!)
ふわぁっ。刀が、光のなかに雨を集めていく。
人間の輪郭を、ぼやけながらもなぞっていく。
やがてルゥと同じ顔をした髪の長い少女が、半透明のまま、浮いていた。
わたしにはうたえないわ、と、ルゥはかつて棘を放った。
それは自らの半身に向けてだったけれど、自分自身にもずっと刺さったまま。心から、血を流しつづけているのだ。
おそるおそる、震えながらルゥは問いかけた。
「わたしを……許してくれるの?」
『許すも許さないも。わたくしはずっとお姉さまと共に在りたかったのです』
ルゥは雨に濡れながらも、ぐすん、と鼻をすすった。
ようやく、妹の言葉を素直に受け止めることができた。そうすると自分自身の棘も、ゆっくりと融けていくようだった。
言葉を慎重に選んで、音に乗せる。
「今まで、ごめんなさい」
……向かい合うことができた。
(まだ、こわいけれど。あなたが受け容れてくれるのなら)
「一緒に世界を救ってくれる?」
『ええ、もちろんですとも。わたくしはお姉さまを、この世界を、愛していますから』
歌姫が微笑む。
――歌姫は孤独で。
――それでも人間を、世界を愛したかった。
――歌わずにはいられなかった。
(ひとつだけ、解った)
ルゥは瞳を閉じた。深呼吸をひとつ。
「コランダムが『愛』を持たないんじゃない。わたしが得ようとしてこなかっただけなんだ。歌姫のなりそこないであることが辛くて、歌うことから目を背けてきたのと同じで。だけど今は違う」
パパラチアは、あなたが知らないもの、と言っていた。
「……全身が求めている……歌うことを……この世界を!」
愛。今は、知りたいもの、になった。
『お姉さま、共に歌いましょう』
その決意を、歌姫が抱きしめる。
歌姫がひとつになる瞬間。
すっ。ルゥは瞳を見開くと、雨に濡れながら、鋼玉刀を両手で掲げた。
〈わたしのはじめての歌を〉
〈あなたのはじめての歌を〉
〈世界へ〉
ルゥの体から、ふたつの旋律が溢れだす。
美しい音色。それは、種が発芽し、育ち、蕾を花へとい咲かせるようなエネルギーに満ちていた。水であり、光であり、命あるすべてが必要とする養分そのものだった。咲いた花は色彩豊かに世界に溢れていく。
そこには怒りや哀しみも含まれているかもしれないけれど、喜びや楽しみのほうが、質量としては遙かに勝るのだ。
歌は花。愛。希望。世界を、自らを救う、かたちのないもの。
やがてそれは『玻璃宮』の隅まで満ちていく――。




