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突然そのスイッチが入り、画面に映し出されたのは……バルコニーに立つ少女と全く同じ顔をした、だけど、左の瞳が紅色に深く輝く少女――歌姫。
白い肌には化粧が施されていて、頬と目尻と唇は朱く、額には左の瞳と同じ色の顔料で小さく花が描かれていた。裾に金糸で繊細に刺繍の施されたウィンプルを被り、その上には闇色のヴェールをつけている。大きな白い襟と闇色のワンピースが、彼女の存在の高潔さを強調しているようだった。
〈愛はいつでもあなたの傍にあるということを
どうか気づいてください
あなたの愛はあなただけのものであるということを〉
全身を震わせての独唱。他の音を一切許さない、強い強い感情。
「……」
画面を食い入るように見つめてからバルコニーの少女も歌ってみようと口を大きく開ける。
「……ッ!」
しかし喉元を右手で抑えるとそのまましゃがみこんだ。顔を苦しそうに歪める。全身が大きく震える。頬を雫が伝い、結晶化して床に落ちた。
その間にも、歌姫は、荘厳に一曲を歌い上げた。
やがて徐々に空が黄金色に染まっていく。陰影が濃くなる。画面が消え、静謐な夜が訪れる……。
呼吸を取り戻すと、仰向けになって少女は虚空に右手を伸ばした。その右手をゆっくりと自分の顔、右の瞳に当てる。
「来週」
ぐっと、右手を握る。
「死ぬんだ……」
感情を含まず、事実だけを再確認して、少女は瞳を閉じた。
まるで、自らを闇夜に飲みこませていくように。
◆
「姉君さま、失礼いたします。今日より手術の日まで、御祓を行うこととなりました。『偽海の間』へとご案内させていただきます。どうぞこちらへ」
蒼い瞳のぽっちゃりとしたメイドに案内されて、少女は研究所内の長い廊下を歩いていた。
リノリウムの床に、メイドの靴音と、少女が裸足で歩く音が響く。
少女は時折きょろきょろと視線を動かして、扉の横に掲げられた部屋の名前を読む。部屋を出たのは、歌姫となることを放棄してから初めてのことだった。
(第四研究室、鋼玉線照射室、第六実験室、……)
一度見れば位置関係は把握できたが何の意味もなさないことも事実だった。
鋼玉すなわち『コランダム』というのが、酸化アルミニウムのことではなく、自分の右の瞳や前を歩くメイドの蒼い瞳を意味することを、たくさんの書物によって少女は知っていた。
正確には、瞳というよりは、存在そのものであるということも。
その定義は、特殊な製法によって生まれた、宝石の瞳を持った人造人間……。
(今までずっと部屋に閉じこめてきたのに、よほど手術を成功させたいんだ)
少女が心中でひとりごちている前でメイドは楽しげに喋りつづけている。
「歌姫さまのお誕生日は、年に一度の聖祭でもありますからね。今年は両の瞳が紅になるという、非常におめでたい年にもなります。そこに立ち会えるなんて、私はなんて幸せなサファイア・コランダムなのかしら」
メイドが誇らしげに微笑む。
「もちろん国民の皆さまはまだそのことを知りません。聖祭で歌姫さまを見たら、さぞ驚いて感激するでしょう! 国じゅうの誰もが待ち望んでいた、完璧な歌姫さまの誕生は、しかと史実に刻まれることと思います。今、国じゅうで聖祭に向けて着々とお祝いの準備が進んでいます。街へ出るたび、私は、国民に教えたくてたまらなくなりますが、ぐっと我慢して帰ってくるのですよ」
『サファイア』は汎用化されたコランダムで、メイドや事務作業に使役されている。喜怒哀楽のなかでも喜びの感情が強いのが特徴で、主人に対して強い称賛を向ける。
翻れば、主人以外についてはぞんざいな態度を取るということだ。
(わたしの気持ちなんて考えずに……腹立たしい)
手術が成功すれば少女の生は終わるということについて、想像ができないのだろうか。
少女はメイドをきつく睨むが気づかれない。
(……どうせわたしなんて)
ぽすっ。
俯くと、不意に立ち止まったメイドの背中にぶつかった。
「姉君さま、少しお待ちくださいね」
廊下がT字に交差する部分を、集団が横切るところだった。メイドはその団体を先に目的地へ行かせようとしていたのだ。
少女が目を凝らすと、白衣の男たちやサファイア数人に囲まれて、真っ直ぐ前を見て歩く黒いワンピース姿の少女が、……いた。
(歌姫!)
少女は息を飲んで、同じ顔の少女を睨みつけた。心臓の鼓動が早鐘を打ちはじめる。目を逸らすことができずに敵意を送りつづける。
すると視線に気づいたのか、歌姫も立ち止まり、自らの姉を……認識した。
「……」
「……」
違和感を含んだ張りつめた空気に場が支配される。歌姫の隣にいた白衣の男たちは一様に侮蔑を少女に向けてきた。場違いな存在の登場を、忌むように。
しかし。
そんな緊張感をものともせず、歌姫は姉に向かって同じ顔で微笑みを浮かべたのだ。
「お姉さま、10年ぶりですね! 今までどちらにいらしたのですか?」
澱んだ空気は一瞬にして澄みわたり、大輪の花が咲いたかのように場が明るくなる。
(……!)
無邪気な言葉は凶器となって少女を容赦なく抉る。
(ふざけるな)
少女の顔面から血の気が一気に引く。拳をきつく握りしめた。下唇を噛み、視線を床に落とす。
(何も知らない、と?)
言葉を発することはできなかった。
歌姫はそんな姉の異変には気づいていないようで、両手をぱんと合わせて歌うように言う。
「もしかして今度の聖典から、お姉さまも歌姫としてお務めを?」
まるで自分にとって喜ばしいことを発見した子どものように。
穢れを知らない幼子のように。
歌姫だけが、この場で唯一輝いていた。
「喉のご病気が治られたんですね。とてもうれしいです。お姉さま、今日この後のご予定は? よかったらお茶でもご一緒しませんか。とっておきの花茶があるんです」
白衣の男が遮る。
「歌姫さま、お医者さまがお待ちです。早く行きましょう」
「え、でも、わたくしはお姉さまとお話がしたいです」
「投薬の時間が迫っています。早く」
無理やり連れていかれる歌姫だったが、うれしそうに少女に向かって手を振り続けていた。
……その姿が見えなくなるまで、少女は指一本動かすことができなかった。
(全身に棘が刺さっているみたい。痛い)
黒い波が胸の奥で渦巻いている。中心に向かえば向かうほど憎悪は強くなるようだった。
「おいたわしや、歌姫さま」
メイドが歌姫を尊ぶように嘆く。
少女は応えない。ぎゅっと拳を強く握って、歯ぎしりする。
(歌姫は何も知らなかった。何も、変わっていなかった)
重たい感情が、緩慢とその身を流れていく。
(あの、『痣持ち』が……!)
一方でメイドは両手を頬に当ててうっとりとしている。
「さすがは、まもなく完璧な紅色の瞳となる歌姫さまですね。10年ぶりに再会した姉君さまにもお優しいだなんて」
(うるさい)
(うるさい)
「なんとも誇らしい、我々の歌姫さま!」
(うるさい!)
……しかしメイドを振り払うことはせず、少女はうなだれるのみ。岩のようにかたまって動けなかった。
「さささ、姉君さま。まいりましょうか」
(うるさい……)
誰にも理解してもらえることのない怨嗟を、呪詛を、少女は飲みこむ。