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しかし、エメリーの答えは、そのどちらでもなかった。
かすれて、聞き取るのもやっとの呟きが返ってくる。
「……諦めていないのか、お前は」
あるいはルゥにむけての返答ではなかったのかもしれない。
それでもルゥは瞳に涙を溜めたまま大きく頷いた。勢いで零れた雫は結晶化してぱらぱらと落ちる。鈍色の石も手から滑り落ちて、床に転がった。
(だって)
(諦める、理由がない)
「ちっ。まったくもって愚かなコランダムだな」
どんどんどん。どんどんどん。
激しく扉を叩く音と、歌姫を呼ぶ声が扉越しに轟く。開けられるのは時間の問題だった。
「しかたない。お前の絶望に期待しよう。そして、最期には瞳をいただくとするか」
今度は再び、エメリーがルゥに手を伸ばす番だった。
……ルゥは瞳を閉じて声にならない言葉を思う。
(わたしは、あなたを)
◆
からからから。からからから。
薄墨色の箱の両脇にあるふたつの輪っかが回っている。そこから途切れ途切れにモノクロームの映像が映し出されている。
そこは巨大な放水路だった。
雑音に混じって軽やかな鼻歌が時々聞こえてくる。
やがてひとりの少女の顔が映し出される。顔はぼやけてはっきりと見えない。
『応援していますよ。願えば、どんなことだって叶うんですから』
掠れてはいるものの音声が女性の声を伝える。柔らかく耳に残る音だった。
少女は、機械を操作している人間に向けて話しかけているようだった。
映像を観ている男性は映し出された少女へと手を伸ばす。左手の薬指には細い指輪がはめられている。
しかしそれはただの映像であり、触れることはできない。虚空を掴むと、男性はそのままうずくまった……。
「そうか。会いたいんだ、この男のひとは!」
「お前はほんとうにそのフィルムが好きだな」
呆れたようにエメリーが言う。
「とても悲しい物語なんですね。きっと、この女性とは、もう会えないから、彼は悲しんで、でも泣いている姿を誰にも見せたくないんですね……。これが、きっと『愛』……」
「厭味を聞き流すようになるとは、余計な技術を身につけたな」
かちり。
フィルムは停止し、エメリーは懐から鍵を一本取り出して見せた。
「どうしてもしたいことがあるというから何事かと思ったが。まぁいい、ついてこい。いい場所に連れてってやる」
◆
案内されたのは薄暗い、一面が象牙色の巨大な地下空間だった。柱が規則的に大樹のように並んで高すぎる天井を支えている。
「ここは……!」
「そうだ。あのフィルムに映っていたのと同じ場所だ。かつては緊急時の放水路として使われていたが、『玻璃宮』の天候調節機能によって極端な豪雨が降ることはなくなったために用済みになったらしい」
フィルムの映像とはひとつだけ違う点があった。
柱に似せた大樹のような十字架がふたつ、地面に刺さっていた。鈍色の石でできているのだろう。光は、反射しない。
「お前たち姉妹を磔にして、その血を、世界の奥底まで到達させるのがぼくの目的だった」
エメリーは十字架に歩み寄って、そっと触れ、見上げる。
「この十字架は『玻璃王』に通じている」
「『玻璃王』……?」
「この世界の中心で眠る、創造主だ。世界は奴の見ている夢にすぎない。奴にルベウスの血を飲ませて、狂わせ、世界を壊すつもりだった」
悔しそうにエメリーは紅に染まった鋼玉刀を見つめた。
「しかしそれも叶わなくなった。お前を殺そうとしたら、刀は紅に染まってしまった」
ルゥは反論せずにエメリーの言葉に耳を傾ける。
「ぼくは呪われたコランダム。世界を壊すために生まれたのに……」
正義でも、悪でもない。
それは純粋な、使命。存在証明。
そっとエメリーが狼の毛皮を外した。
闇夜と同じ髪の色が露わになる。後ろでほんの少し髪の毛を束ねていた。毛皮をそっと撫でながら言葉を続けた。
「男のコランダムは呪われていると、早々に廃棄処分になったそうだ。しかしそんなぼくを拾って育ててくれたのがこの狼……母親だ。もしかしたら最初は食糧のつもりだったかもしれないが、おかげでぼくは生き延びることができた。母親は、最期はぼくを探していた研究所の奴らに射殺された。ぼくはすぐさま奴らを殺した! そのとき返り血を浴びて理解したんだ。自分自身の産まれてきた意味を……」
ぎゅ、っと毛皮を抱きしめて、顔を埋めた。
ルゥには、それが泣いているように見えた。
(ミィさんの涙は結晶化するんだろうか)
たとえそうでなくても、涙は美しいもののような気がした。
エメリーは毛皮から顔を放して、何事もなかったかのように頭に載せる。
「母親が見守ってくれるような気がしているんだ。この世界を壊すのを、応援してくれているような」
ルゥの立っている場所からはどんな表情をしているのか見えなかった。
「お前が諦めないように、ぼくだって諦めない。どんな手を使ってもこの世界をめちゃくちゃにしてやる」
「そんなっ、……」
「どうだ? フィルムは繰り返し見れば理解できるかもしれないが、ぼくのことは、永遠に理解することはできないだろう。そういうものなんだ。ぼくは、誰にも理解してもらうつもりはない。それでいい」
そうしてエメリーは空間から出て行った。
ルゥはエメリーのいた位置までゆっくりと進み、十字架を見上げる。
鈍色の処刑台は、感情を持つことが許されない無機物だ。
まるで、エメリーそのもの。
「ミィさん……」
ルゥの胸は締めつけられているように痛かった。頬を結晶が滑り落ちていく。
(わたしもミィさんも、研究所に棄てられた存在なんだ。始まりは同じはずなのに、どうして)
エメリーの歩んできた道のりと、自分の閉じこめられてきたこれまでのことが重なる。衝動的に十字架を拳で叩いた。
(どうしたら解りあえるんだろう……!)
『賭けをしましょう』
「えっ!」
無意識に発せられた音に自分自身で驚いた。
(なに、今の……)
全身に、ぞわりと虫が這うような違和感が駆け抜ける。ルゥは勢いよくワンピースをたくし上げた。自らの肌を確認すると、力が抜けたようにへたりこんだ。
なにもなかった、はずなのに。
「うそでしょ」
両手で頬に触れる。さらには全身に触れて、体の感触を確かめる。
『死んだ方がいいのか、確かめてみろ』
ルゥの脳内にエメリーの言葉が蘇る。
「……呪われているのは、わたしのほうだ……」
何もかも、答えは出ない。




