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できそこないの歌姫  作者: shinobu | 偲 凪生
第3話 はじめての祈り
20/37

6

 ルゥはロージの言葉を思い出す。

 母親の病というのは記憶を喪い、息子の存在を手放してしまったということ――。

 殴られてもいないのに体が痛みを訴えていた。眩暈がして扉に背中を預ける。


「いい子にしていたら歌姫さまが弟をプレゼントしてくれるわよ、って言ってるんだけどね」

 くすくす。無邪気な微笑みは、あまりにも鋭い凶器でしかない。

「あ、あのっ」

 ルゥは頭に被っていた布と、眼帯を外した。ぱっぱっ、と手を布で拭いてから、ロージの母親に近づいて見つめた。ベッドの脇に立つと、女性の両手の上に、自らの掌を重ねた。


「あなたに、歌姫の、歌姫のっ……加護があります……ように……」


(歌うことでこのひとを、ロージを救えたらいいのに)


 すっ、とルゥは深呼吸する。

「……!」

 喉の奥に激痛が走る。顔を歪ませる。


 ――歌えない、歌姫。なりそこないは、なりそこないでしかない。


 あんなにも憎んでいた、祈りの言葉を。

 今ここで必要としたいのに。かすかな音さえ、許されない。歌姫であることを放棄したのは自分自身。

 まるで、今さらだと嗤われているようだった。

(音よ! 出て! お願い!)

 しかし奇跡はかんたんに起きないから奇跡という……。

 女性は夢に沈んだまま、ルゥの掌を握り返した。

「えぇ、きっとあると思うわ。ありがとう」



「ルゥ! こんなところにいたのか。探したんだぞ。宿も精算しちゃってたし……。おれ、君になにか悪いことした? 宿の寝心地悪かった? 飯、まずかった?」

 道端にいたところを見つけてきたのは、ロージだった。

「泣いてる?」

 ルゥは首を横に振って否定する。

 ぽんぽん。ロージが、ルゥの頭を優しく撫でた。

「ごめんな。飯食ってても、ルゥのことが気になってさ。気を悪くさせたお詫びがしたいんだ。とーちゃんには許可もらってきたからさ」

 ぴっ、とロージがフィンテリングを翳す。歌姫の横顔が浮かびあがった。


「歌姫さまの誕生聖祭、一緒に行かないか?」


 その決定に至るまでのことは、ルゥには、想像するだけで胸が痛むようだった。



 観客たちがしっかりとめかしこんできているのに、ルゥとロージだけが普段着だった。

「後ろの方の席だから大丈夫、大丈夫」

 ロージがウィンクしてみせる。

 観客席は五階まであり満席となっていた。ざわざわと場内は会話で波打っている。ロージもどことなしか興奮しているようで鼻息が荒い。

「はじめて来たけど、国にはこんなたくさん人間がいるんだな」

「そうだね」

 ルゥも気がそぞろなまま答える。

(はじめて来たのに、何故だか懐かしい……)

 三階席のいちばん後ろの、左端の席にふたりは座った。

 遠くに見える舞台にはオーケストラが準備していた。磨きぬかれた金管楽器がきらきらと瞬いている。

 見たこともない光景なのに既視感を覚えずにはいられなかった。

(なんだろう。わたし、ここに来たことが……あるような……?)


 やがて、ぱっ、とすべての照明が消える。闇のなか、荘厳な音楽が奏でられる。

 観客たちは立ちあがり、拍手の渦が巻き起こる。

 歌姫さま、お誕生日、おめでとうございます! 誰かが叫んだ。声量を競い合うかのように口々に皆が大声を張る。おめでとう! 愛しています! 会いたかったです! おめでとう! おめでとう!

「歌姫さまー! お誕生日、おめでとうー!」

 ロージも前のめりになって、右隣で叫んでいる。

 圧巻の光景。びりびりと震えるのは鼓膜だけではなかった。

(この国のすべてが歌姫を祝福しているんだ……こんなにも)

(悲しくないのに、涙が出そう)

 ルゥは両手を胸の前で組んだ。

 あらためて、この国で歌姫とはどんな存在なのか思い知らされる。

(あの子はたったひとりで、向き合ってきたんだ……)


 ――やがて音の波が収まると、静寂のなか、スポットライトが舞台の中央を照らした。


 歌姫さま、と誰かが呟く。光を浴びて、生身の歌姫が立っていた。

 再び沸き起こる拍手の中心で、歌姫が深く深く頭を下げる。

 顔をあげた歌姫は、右腕を大きく振った。髪の毛は結われて頭の上でひとまとめになっている。そこにティアラが輝いている。純白のドレスにも光が散りばめられていて、まさに、世界の中心であることを表しているようだった。


「ルゥ! あの方が歌姫さまだよ!」

 しかし。

「うそ」

 ルゥの口から漏れた言葉は幸いにも歓声にかき消された。

「うそだ」


(あれは歌姫じゃない。偽者だ。ただの人間だ)


 ルゥは無意識のうちに眼帯に手を当てていた。瞳は熱を持っていた。歌姫になにかが起きたとしか考えられない異変。

 地震が起きたときから身を包んでいた違和感が、確信に変わる。

(瞳の色をうまくごまかしているけれど、わたしはだまされない……!)

 一曲を歌いあげ、偽の歌姫は拍手に包まれて舞台から去っていった。

(歌姫に会わなければ)

 どっどっどっ。心臓の鼓動は速く、全身を駆け巡るのは怒りと疑念。

 歌姫になにがあったのか。

 国民を騙してまで、研究所はいったい何をしようとしているのか。

「歌姫さま、きれいだったな!」

 興奮状態のロージに、ルゥは返事をすることができない。

「どうした? 怖い顔してるけど、大丈夫か……?」

 ルゥには、嘘でも偽の歌姫を讃えることはできなかった。

(そんなことしてしまったら、裏切りと同じだ……)

 拍手と称賛に対しての。

 国民の期待に対しての。

 歌姫に、自分自身に対しての、裏切り。

 ぐっと、拳を強く握りしめた。

「ルゥ?」

 顔を覗きこんでくるロージに、ルゥは向き合う。

 ごそごそとポケットを探っていちばん大きな涙を取り出すと、ロージの掌へ移した。

「えっ? ルゥ?」

 コランダムの涙だと気づき、ロージが慌てる。

「お世話になりました。戻らなければいけないところを思い出したので、わたしは行きます」

 眼帯を外すと暗闇でもルゥの右の瞳は紅の輝きを放っていた。


 誰にも真似することはできない、唯一無二の色――。


 もっとも、周りはアンコールを求めて舞台しか観ていないので気づく者はいなかったが。

「え? まさか? そんな、ルゥ? 男じゃなかったのか? だってその瞳の色って。え?」

「わたしの涙はお金に換えてください。お礼としては足りないくらいですが、楽しかったです」

 呆気にとられているロージの掌をしっかりと握りしめる。

「あなたたち家族に、歌姫の加護があらんことを」

 そしてルゥは眼帯をつけ直すと、客席からホワイエへ出た。


(戻ろう。鋼玉研究所に)

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