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ルゥはロージの言葉を思い出す。
母親の病というのは記憶を喪い、息子の存在を手放してしまったということ――。
殴られてもいないのに体が痛みを訴えていた。眩暈がして扉に背中を預ける。
「いい子にしていたら歌姫さまが弟をプレゼントしてくれるわよ、って言ってるんだけどね」
くすくす。無邪気な微笑みは、あまりにも鋭い凶器でしかない。
「あ、あのっ」
ルゥは頭に被っていた布と、眼帯を外した。ぱっぱっ、と手を布で拭いてから、ロージの母親に近づいて見つめた。ベッドの脇に立つと、女性の両手の上に、自らの掌を重ねた。
「あなたに、歌姫の、歌姫のっ……加護があります……ように……」
(歌うことでこのひとを、ロージを救えたらいいのに)
すっ、とルゥは深呼吸する。
「……!」
喉の奥に激痛が走る。顔を歪ませる。
――歌えない、歌姫。なりそこないは、なりそこないでしかない。
あんなにも憎んでいた、祈りの言葉を。
今ここで必要としたいのに。かすかな音さえ、許されない。歌姫であることを放棄したのは自分自身。
まるで、今さらだと嗤われているようだった。
(音よ! 出て! お願い!)
しかし奇跡はかんたんに起きないから奇跡という……。
女性は夢に沈んだまま、ルゥの掌を握り返した。
「えぇ、きっとあると思うわ。ありがとう」
◆
「ルゥ! こんなところにいたのか。探したんだぞ。宿も精算しちゃってたし……。おれ、君になにか悪いことした? 宿の寝心地悪かった? 飯、まずかった?」
道端にいたところを見つけてきたのは、ロージだった。
「泣いてる?」
ルゥは首を横に振って否定する。
ぽんぽん。ロージが、ルゥの頭を優しく撫でた。
「ごめんな。飯食ってても、ルゥのことが気になってさ。気を悪くさせたお詫びがしたいんだ。とーちゃんには許可もらってきたからさ」
ぴっ、とロージがフィンテリングを翳す。歌姫の横顔が浮かびあがった。
「歌姫さまの誕生聖祭、一緒に行かないか?」
その決定に至るまでのことは、ルゥには、想像するだけで胸が痛むようだった。
◆
観客たちがしっかりとめかしこんできているのに、ルゥとロージだけが普段着だった。
「後ろの方の席だから大丈夫、大丈夫」
ロージがウィンクしてみせる。
観客席は五階まであり満席となっていた。ざわざわと場内は会話で波打っている。ロージもどことなしか興奮しているようで鼻息が荒い。
「はじめて来たけど、国にはこんなたくさん人間がいるんだな」
「そうだね」
ルゥも気がそぞろなまま答える。
(はじめて来たのに、何故だか懐かしい……)
三階席のいちばん後ろの、左端の席にふたりは座った。
遠くに見える舞台にはオーケストラが準備していた。磨きぬかれた金管楽器がきらきらと瞬いている。
見たこともない光景なのに既視感を覚えずにはいられなかった。
(なんだろう。わたし、ここに来たことが……あるような……?)
やがて、ぱっ、とすべての照明が消える。闇のなか、荘厳な音楽が奏でられる。
観客たちは立ちあがり、拍手の渦が巻き起こる。
歌姫さま、お誕生日、おめでとうございます! 誰かが叫んだ。声量を競い合うかのように口々に皆が大声を張る。おめでとう! 愛しています! 会いたかったです! おめでとう! おめでとう!
「歌姫さまー! お誕生日、おめでとうー!」
ロージも前のめりになって、右隣で叫んでいる。
圧巻の光景。びりびりと震えるのは鼓膜だけではなかった。
(この国のすべてが歌姫を祝福しているんだ……こんなにも)
(悲しくないのに、涙が出そう)
ルゥは両手を胸の前で組んだ。
あらためて、この国で歌姫とはどんな存在なのか思い知らされる。
(あの子はたったひとりで、向き合ってきたんだ……)
――やがて音の波が収まると、静寂のなか、スポットライトが舞台の中央を照らした。
歌姫さま、と誰かが呟く。光を浴びて、生身の歌姫が立っていた。
再び沸き起こる拍手の中心で、歌姫が深く深く頭を下げる。
顔をあげた歌姫は、右腕を大きく振った。髪の毛は結われて頭の上でひとまとめになっている。そこにティアラが輝いている。純白のドレスにも光が散りばめられていて、まさに、世界の中心であることを表しているようだった。
「ルゥ! あの方が歌姫さまだよ!」
しかし。
「うそ」
ルゥの口から漏れた言葉は幸いにも歓声にかき消された。
「うそだ」
(あれは歌姫じゃない。偽者だ。ただの人間だ)
ルゥは無意識のうちに眼帯に手を当てていた。瞳は熱を持っていた。歌姫になにかが起きたとしか考えられない異変。
地震が起きたときから身を包んでいた違和感が、確信に変わる。
(瞳の色をうまくごまかしているけれど、わたしはだまされない……!)
一曲を歌いあげ、偽の歌姫は拍手に包まれて舞台から去っていった。
(歌姫に会わなければ)
どっどっどっ。心臓の鼓動は速く、全身を駆け巡るのは怒りと疑念。
歌姫になにがあったのか。
国民を騙してまで、研究所はいったい何をしようとしているのか。
「歌姫さま、きれいだったな!」
興奮状態のロージに、ルゥは返事をすることができない。
「どうした? 怖い顔してるけど、大丈夫か……?」
ルゥには、嘘でも偽の歌姫を讃えることはできなかった。
(そんなことしてしまったら、裏切りと同じだ……)
拍手と称賛に対しての。
国民の期待に対しての。
歌姫に、自分自身に対しての、裏切り。
ぐっと、拳を強く握りしめた。
「ルゥ?」
顔を覗きこんでくるロージに、ルゥは向き合う。
ごそごそとポケットを探っていちばん大きな涙を取り出すと、ロージの掌へ移した。
「えっ? ルゥ?」
コランダムの涙だと気づき、ロージが慌てる。
「お世話になりました。戻らなければいけないところを思い出したので、わたしは行きます」
眼帯を外すと暗闇でもルゥの右の瞳は紅の輝きを放っていた。
誰にも真似することはできない、唯一無二の色――。
もっとも、周りはアンコールを求めて舞台しか観ていないので気づく者はいなかったが。
「え? まさか? そんな、ルゥ? 男じゃなかったのか? だってその瞳の色って。え?」
「わたしの涙はお金に換えてください。お礼としては足りないくらいですが、楽しかったです」
呆気にとられているロージの掌をしっかりと握りしめる。
「あなたたち家族に、歌姫の加護があらんことを」
そしてルゥは眼帯をつけ直すと、客席からホワイエへ出た。
(戻ろう。鋼玉研究所に)




